私はボランティアに参加させていただくことで、字幕作業だけではない多くのことを見せていただき、みんなに本当に感動している。
字幕つけるだけが作業なのではなく、数多くの長い動画から一部を切り取って美しく編集する作業、リトリートの画像の作成...
こういったことをしている方たちの ひとつひとつのやり取りも見せていただいている。
どんな動画一つ、どんも画像一枚も勝手な好みで作成されていくのではないし、一人の作業で作成されていくのではない。たった一つの言葉、たった一行のフレーズ、それらを聖霊に導いてもらいながら、数名で祈って関わりながら、まったく妥協なく仕上がっていく。
デイビッドの動画はYoutubeで見られるので、気軽に再生できるかもしれない。昔 私は、デイビッドの動画をそこまで考えずにただ興奮して見ていたから、ありがたいと思いつつも、それは深いものではなかった。
でもそれができるまでのやり取りを目の当たりにしてしまうと、たった短い1本の動画、たった一枚の画像の背後にどれほどのものが含まれているのだろうと思うことになった。
たとえば画像だったら、てきとうにカッコよく見えるように画像に模様を入れているのではないし、好みで字体が選ばれているのでもない。それを毎月、リトリートの度に完成させるのだから、どれほどの献身だろうと思う。自分勝手にできるなら人間的には相当ラクだと思うし、そうしたい誘惑はとても大きいと思うから。
私は、自分が字幕を作成する側にいる時には、実はどれほどの心のトレーニングをしてもらっているかを感じて感謝する。自分のためのトレーニングとして自分のためにやっても上手くはいかない献身トレーニング。だから、こんなことに取り組ませてもらえる機会自体に本当にありがたく思う。
でもいったん見る側につくと、それらが全部自分に返って来るので、美しい1本の動画を見るだけで、「この動画にいったいどれくらいの時間と献身が含まれているのだろう。こんな良いとこ取りをワンクリックでいつでも見られるなんて、とてもありがたい。」と思う。
それの動画をたまたま見て、「ジーザスが手配した」の一言で言ってしまえばそれまでだけれど、その一言は非常に大きく壮大な一言としてとらえるべき。
だから、話してくれているデイビッドにだけでなく、それが公開されるまでに携わった多くの人達への感謝もわく。だからこそ、見るものに対してまたさらに意味深くなる。
とはいえ、制作する側は、本当の意味ではとても簡単だとも思う。自分が作っていないし苦労もないと分かる。スピリットにガイドされるだけだから。「だけ」になることが一番難しい。だから結局、大変と感じるのは、スピリットに聞きたいか、自分で解決したいか、自分の時間をスピリットに使ってもらいたいかの葛藤だけだ。
だから私は、たぶん、長年のたくさんの、みんなの献身に感謝しているのだと思う。
その献身のおかげで、私は簡単にいろんなものを見ることができて、いろんなことを教えてもらうことができている。
そしてそれが全部集約されて、「ジーザスが手配した」の一言で表現されている。
多くの人達の愛の手が合体に合体を重ねたものを、今、私の目の前に、ジーザスが用意する。
ジーザスはそんなに広大で奥深いそれを私に見せたいから、さらに厳選して、1枚の画像、たった2分の動画を、目の前に表してくれている。
そしてその1枚に携わった人とジーザスは一致している、広大な一人。
そして、それが私と一緒に見てくれる人の心に触れたら、またそれが延長し、その人からさらに他の人に触れて、また延長していく。