祈りが答えられなかったことは
これまでに一度もありませんでした。
今日は、たくさんの人が一人残らず声を上げて笑い、心から楽しんでいる場がありました。
そこで私は、楽しく笑う自分と、楽しむことをセーブする自分に出会いました。
全員があんなに大声で笑うシチュエーションは、奇跡的です。
それなのに、スッキリせずに、憂鬱な気持ちを抱えていたのです。
どうしたら良いかさっぱり分からず、ついに深く助けを求めることになりました。
とにかく懇願しました。
全員が笑うというのは、喜びを延長している証拠です。
それなのに、私には憂鬱感があります。
何かの抵抗を感じています。
これが真実なはずはありません。
私は一体、どんな間違った考えをしてしまっているのでしょうか?
苦しいです。
もうどうしたらいいかわかりません。
私が何を間違っているのか見せてください。
教えてください。
しばらくすると、自分にどんな思考がまわっているのかが明らかになってきました。
幻想を楽しんで良いのか?
という自分への咎め
私は今日一日中、聖霊に耳を傾け続けることができていなかったという咎め
そんな自分には楽しむ資格がないのではないという咎め
すべてが
自分には喜びの資格がないという咎めでした。
そしてやっと
無意識に抑圧していた信念を明らかにすることができたように感じました。
その後に来たものは
それはあり得ない
神の子が喜んではいけないなどということは
あり得るはずがない
神の子は喜ぶことだけができる存在だ
幻想の中でさえ
喜びの想念だけは真実だ
という思考の発生でした。
そして、エゴが喜んではいけないと言っていただけだという思いに進みました。
涙があふれると同時に、
笑ってくれていたみんなを通して、神がどれだけ私を愛し、どれだけ私のブロックを取ろうとしてくれているかに気づきました。
私は、エゴを超えて喜びを延長できているのに、だからこそ、そこにエゴがそれを止めようとしていました。
喜んではいけない!!!と。
自分のブロックに気づいた後は、それが本当に小さな間違った考えだったと気づきます。
それなのに、そこに至るまでの道のりは、いつも長くて、小さすぎて見つかりにくいものもさえあります。
でもその長い道中を後から思い返した時、すべてがこの一瞬で起こる気づきのために、優しく順調に進んでいたことも見えます。
私は、深い祈りが必要だという心境に至るまで、つまり、
どうにか私の間違った心を正しくして欲しい
もう本当にわからなくなりました
何とか助けてください
という心境に至るまでに時間がかかります。
でも、そこに至った時に、助けの答えが来なかったことは一度もありません。
そしてその後は必ず
感謝の思いが込み上げてきます。
どれだけ愛されているのだろうと。
そしていつも、
私はただ祈り方が
まだ上手じゃないだけだった
と思うのです。
祈りに達することができれば
必ず答えられます。
最後に残るのは
愛されているという事実と
すべて大丈夫という安心感です。