奇跡講座の中に『責任』という言葉が出てきます。

この言葉について話すシチュエーションでは、大抵の場合、

「その言葉が恐い。嫌な言葉だ。」

と返ってきます。

そしてそれ以上聞きたくない様子を見ます。



私はまだこの言葉を恐がっているのか。

ずっと前に、『責任』について、とても嬉しい言葉だということが分かったつもりでいたからです。

その時。喜びが湧いて、どれほど愛されているかを感じました。

その時、こう分かりました。




可愛そうだなとか
あの人が心配だ
と思うシチュエーションで
赦しができたと思えなかったら?

もし、赦す責任を取れなかったら?


こう考えることになりました。

その時、浮かんだものは


何も問題ない!


でした。

なぜなら、
仮に責任を取れなくても
事実は、
その人は、
今まさに実在の中にいるのであって、私が見ているような状態ではないからです。

たとえ赦しに失敗しても、
その時に赦しの責任をとれなかったとしても
私が勝手にそう見ているにすぎないからです。

たった一つの事実は、
その人がここにいないということ。

事実は、
私がいくらそれをねじ曲げようとしてもできないほど、その人の事実は神の愛に包まれているということ。

何の心配もなく、喜びにあふれて...




とても大事な人に対して
赦しが上手くいかないと
間違った考えで悲しむ時、
この『責任』は私にとって救いの言葉です。

責任が取れなかったとしても、
私が間違った映像を見ているだけだと思えるからです。

間違った映像をまだ見ているし、
消えていないし、
責任が取れていないように思えるけれど、
大事な人は救われたままで、
今も幸せでいる。

それが事実ということが何よりも嬉しいのです。



責任を取らなきゃいけないという
世界を救う重圧よりも
責任を取れない時もみんな幸せだという喜びが大きな救いです。

何を見ても
何が起こっても
どんなに赦しが下手くそでも、
しょせん、私が一人舞台で不幸なふりをすることしかできていないのだから。



『責任』は重圧ではありません。

喜びの言葉です。

そして責任を取れた時も、喜ぶのは私だけです。

他の誰も今さら救われることはありません。

だってすでにみんな救われているのだから。

「私がいつ喜ぶか?」
しか『責任』は求めていません。