クリスマスです。
今、たくさんの愛の体験をしています。
幻想という形をつかってもくれます。
たくさんの奇跡を目にしているのに私はずっとクールで、まったく喜びを感じずにいました。
でもやはりクリスマスは神聖です。私はクリスマスをそう思っています。
しばらくずっと、家族について、関わる方人たちについて、一人一人がフラットな地位になった後、みんな神聖な存在だと思えるようになり始めていて、それにたくさんフォーカスしていました。
そのような中で数日前から
デイビッドさんがFacebookを使ってあるアクションをしてくれていました。
まったく意味が分からなかったのですが、何なのかが分かった時、私は、愛を招き入れるということが少しわかり、久しぶりに、喜びで泣け落ちました。
デイビッドさんは、ただ、私の心を何度もノックしてくれていて、愛で、ただそれだけをしてくれていました。
それで感謝のメッセージを彼に送りました。
すぐに
「どれほど美枝は貴重なんだろう」
という一言と、たくさんのマークと、ハートが飛び出るスタンプで、またさらに愛を送ってくれました。
そして何かが変わりました。
その後、私が勧めてからずっとコースを実践し続けているあっこちゃんから連絡があり、昨日は一日中、ラインと電話で投影し合い、リトリートし合い、昨日の時点で着地したポイントは、まるで予想もしなかったことでした。
やり取りの中で私は、あっこちゃんが神の愛を感じている姿にうらやましがりました。
もちろんあっこちゃんは、私が話したことのおかげでわかったから今愛を感じているのだと思っています。私にも聖霊にも感謝しているのは間違いありません。
それでも私は、ほんの少ししか嬉しくありませんでした。
私は
「それはおかしい。何かを見落としている。」
と思いました。
頭の中で奇跡講座の内容の思考が始まりました。
そして、思考のつじつまが合った時、
「私は神からの感謝を受け取らなければならない」
という結果に行きつきました。
私があっこちゃんに愛を投影し、あっこちゃんがしてくれる表現を、神からの感謝だと受け取らなければならないんだと考えました。
私は、こんなことを実践したことはありませんでした。
神からの感謝なんて、私がされるはずも、受け取る資格があるはずもなかったので、眼中外だったからです。
眼中外だったものが眼中外ではない可能性が出てしまって、私が動揺し始めた時、
「ありえない!!!」
と心の中で叫びました。
しばらく、動揺で部屋を意味もなく歩き回り、そわそわし、じっとしていられませんでした。
呼吸が粗い中、「ありえない!!!」と叫んだのが自我だと確信し、だから行き着いた答えは絶対に正しいと考えるようになりました。
それから落ち着いて、まとまった考えは
私は自我の投影ばかりを気にして、
自分が愛を投影できることなど思っていもいなかった。
誰かに起こった奇跡が、自分の愛の投影だと考えていなかった。
誰かに起こったのではなく、私の愛を見てたんだ。
そして、それは、神からの感謝なのだから、「私の無価値感」を手放して、自分が神の愛を投影できたのだと見なければならないのだ。
というものでした。
デイビッドさんからの
「なんて貴重なんだろう」
の一言があったから、「まさか」と思っていたものをまさかではないことにできました。
聖霊の言うことを信じない、デイビッドさんのいうことを信じないということは例外を設けることであり、おこがましいなどと言ってられないと思ったからです。
その一言をいただく前からのアプローチも、なくてはならなかったものでした。
デイビッドさんは魔法のように、愛だけで、説明ができない壮大な影響を与えてくれました。
何事も愛でしかできないんだ!を体験させてくれ、見せてくれました。
それからこの一連をあっこちゃんにも話し、あっこちゃんのものでもあるとして伝えました。
あっこちゃんは自分のものとしてちゃんと受け取れたことによって、思いもよらなった着地点に立ち、すぐに、次の壮大なステップを視界に入れました。
どうなっちゃうんだろう?という恐くも楽しみな感覚があります。
それからもいろいろなやり取りがありましたが書ききれません。
昨日夜遅くまでやり取りは続きました。
昨日最後の締めくくりだけ書きたいです。
あっこちゃんから電話が来ました。
彼女には1歳の息子そうちゃんがいて、電話をしているといつもスマホを取り上げられて、話していられないのだそうです。
でもあっ子ちゃんは、私と話している時だけは膝に座って静かにしていて、それにいつも驚くと言います。
そしてこの電話も、私からのラインの音に反応して、そうちゃんがスマホを持ってきたから電話をしたんだそうです。
私がその日出会った愛のシンボルの写真や動画もたくさん送ったので、ラインの連続音でそうちゃんは目がさえちゃったようです。
私の文の意味もわからなかったし、そうちゃんが何か言いながらもってきたから、電話した方いいんだと思ったんだと言いました。
しばらくお互いの心にあるものを話していると、急にそうちゃんの笑い声が聞こえました。
そうちゃんはお腹からケタケタ笑っていました。
あっこちゃんは
「何で笑ってるのかわかんない!何で笑ってるのそうちゃん!何もしてないよ!私何で泣いてるんだろう!」
と言いながら笑い、私も笑いました。
そうちゃんは笑いが止まらず、何分も笑い続け、しばらくただ3人で笑い続けていました。
私たちはそれで十分わかりました。
そうちゃんに教えられちゃったなぁと言いながら、私たちは完璧な答えだと受け取ることができました。
その後はただ「またね」で終わりでした。
そして電話の後も、動画や言葉を通して、神聖な内容のメッセージがいろんなところから送られてきました。
私は学べたのかもしれません。
受け取るということがどれほど難しく、どれほど大切なのかということ。
ただ「受け取るように」と言ってくれているのが本当なのだと深く思いました。
心を開いて、愛を招き入れる許可を出すことは、本当に神が望んでいることでした。
そうすることで、もっともっと愛が見えるようになり、愛が向こうから飛び込んでくるのではないかと思えるようになりました。
実際、愛のシンボルとして、それは世界中からも来るし、自分が行った先にも本当にありました。
ただのたまたまの形だと見る目と、愛だと見る目という、ほんの少しの違いは大きな違いで、自分が誰なのか?という前提に基づいた大きな違いでした。

