今日は、まとまらないまま、そのままに書く。


今日は、サプライズプレゼントであるコンテストに行って来た。

朝から、
内なる祭壇に無意味な自分で作ったものを置かないよう、そして喜びと平安しか私のものではない、それ以外に私にすべきことはない、と強く心に留めた。




素晴らしい一日で、ずっと聖霊に教えてもらい続けた一日だった。

自分が朝心に留めたことを維持しようとし続けたことで、「これほどまでに引っ切り無しに聖霊が教えてくれているのか」思うことができた。




私は今日、何も決めなかった。

旦那さんがちょうどいいところに来て私の行動を決めてくれたり、誘われたままに食事に行き、外に出たくなれば出ようと誘われた。

誰かに誘われたり言われるままに行動しているけれど、全部自分が望んだ通りだった。

でも自分が望むよりも一歩誘いの方が早かったようで、そのアクションをした後で「確かに自分はそれが欲しかった」と気づいた。


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コンテストでは、
ダンサーが踊る中で、恐怖を表現する作品を見ていて、どう見たらいいのかと疑問に思っていて、聖霊に聞いたりしていた。

すると、踊り終わった後でダンサーにマイクが向けられ、驚くほど全員が「楽しかったです!!!」とコメントした。

あんなに怖そうな衣装とメイクと、恐ろしい目つきで会場を睨みつけて踊ってたのに、実は楽しかったと言うのだ。

あのダンスが楽しいだって!?

そこで気づかされた。




ダンサーは、先生の言うことを聞き、その望みどおりに表現しようと努める。

それは、先生の作品を信じて、先生の指導を信じて、心までわざわざ怒らせながら表現しようとする、先生へのひたむきな信頼から来ている。

たとえ表面に見える、表現したものは怒りでも、その内には、たった一人の先生への強い信頼という素晴らしいものがあるんだとわかった。

そして、怒りの目の奥にある、信頼の目を感じて私が泣いているということもわかった。

今日は何度涙を流したかわからない。

友達との関係が親密なチームからは、そのつながりにある信頼がこっちまで伝わってきて、私は自動的に笑顔になって、踊っているダンサーと同じように楽しみながら泣いた。



信頼してひたむきでいること。

それは楽しいんだ。

信頼した時、そこに聖霊が入れるから、喜びを教えてくれるからだ。

誰かへの信頼とひたむきは
一心に神の言うことを守るのと一緒だ。

今自分が泣いているのも、楽しんでいるのも、きっと聖霊を信頼して、聖霊に聞きながら過ごせているからだと思った。

そして、私のエゴの心を使ってどんなひどい思いが表現されようと、それはただ演じているのだから何も気にすることは無いと思った。

私もダンサーのように、聖霊の指導のもと、エゴを表現しているだけだから。




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それから、
うちがお世話になっているスタジオからは3チーム出たのだが、

コンテストが終わった後、先生はチームごとに話しをして、子供達に楽しかったか?と聞き、子供達は楽しかった!と答える。

先生は、成長ぶりと一生懸命に取り組んできたことを褒めた後、最高だった、そこに混ざりたくなるほど楽しそうだった、とコメントした。

ベタ褒めだ。



褒めることはほとんどない先生。

でも今日は3チーム全部に感動して、毎回泣き、もう何位でもいい!と結果が出る前にもう大喜びしていた。

こんなことは初めてだった。

何度も「楽しむ」という言葉が飛び交った。

審査員のコメントも、「楽しさが伝わってきた」だったな。


今日は、朝から「楽しい」という言葉をあちこちで何度も聞いた。今日のお題はまさしく喜びだ。



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そういえばチケットのこともあった。

うちの分のチケットがどうにかなったことを知っていた人が急にその話を持ち出してきて、「それはミラクルです。すごい!」と伝えてくれくた。

もう1カップル、「奇跡じゃん!すげーな」と言ってくれた。

その時、「そうか。やっぱりすごいミラクル的なことだったんだ」と再認識した。

みんな、私がチケットにあくせくしていないことを知っていたのもあるけれど、

チケットが空から飛んできたような不思議なことだと、その人達はわざわざ説明しくれた。



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喉が渇いて、自販機の前で何が飲みたいかずっと考えていたら、旦那さんがきて「水が飲みたいから一緒に飲もう」と飲み物まで決めてくれた。

飲んでみて、すごく潤って満たされたので、水を買ったことはピッタリだったと感じた。


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座席の隣りの人が、あまりにも誰のコメントにも反応して深くうなずいているのを「バカみたい」と何度も思った。

あまりにも何度もそう思うから、旦那さんに言ってみることにした。

旦那さんは「それうちのスタジオの人だからここで言うなよ」と笑いながらいった。

外へ出た時にあるカップルとこの話を共有したら、そこからそのカップルの関係とその人の素敵な話を聞くことになり、菩薩という言葉まで飛び出した。

その人達ととても仲良くなり、今度食事しようということになった。

その彼は、イカツイ格好をしているけれど、一緒にいるだけでこっちが幸せになるような穏やかさと暖かさを持っている。

そしてその彼女も、そのおかげで菩薩の心を目指そうと思ったというのだ。

イケイケの格好のカップル(笑)

まったく菩薩という言葉が似合わない(笑)



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フェイスブックでは、
アメリカのコースの学習者の方で、私が少し前から「この人素敵だな」と思っていて、でも敷居が高いと感じて友達申請はできずにいた人から申請が来た。



きっともっとある。

でも書ききれない。



今日は
喜びしか受け入れないと決めたことで、それ以外のものを自分のものではないと判断できた。

だから同時に、聖霊といるということ、喜び以外は私の居場所ではないということをたくさん思い出せた。

そして、エゴの警戒に注意を払うよりも、喜びに注意を払うことでこんな一日になった。




本当に自分次第だ。

今日は、答えがもうすでに与えられている、幸せはもう与えられていることの証明だ。

喜びを投影すれば
「楽しい」を目にして喜びを見る。

そして、エゴを見ても接続しないでいられる。