以前、奇跡講座の中の『責任』という言葉が優しく温かい言葉だと分かった時、とても癒され、安心した。
そして、その言葉がたくさん助けてくれた。
今日は、『責任』という言葉の感覚をもう一度確認することがいいように思うので、書いてみることにする。
この言葉の優しさは、息子に教わった。
それまでは、とにかく嫌な言葉でしかなく、聞きたくない言葉だった。
自分で作り上げてしまった幻想の責任を取らなくては、と思っていたから。
目の前の人の病気、意地悪い人、戦争、核、など何もかも、「自分が作ってしまったことをどうにかしろ」と言われているように感じていた。
でもまるで違う説明をしてそれを訂正した。
『責任』は素敵な言葉。
なぜかというと、
もし自分が誰かのことを赦せなかったとしても
つまり、責任をとれなかったとしても
その人は変わらず大丈夫ってこと。
勝手に可哀そうって思ってるのは自分だけで
その人は変わらず幸せのままでいるってこと。
よかったよね!嬉しくない?!
これによって、
目に入ってくる可哀そうに見える人、悲劇的な体験をしているように見える人、などに対する歪な責任を抱えることから救われた。
だから
仮に赦しに失敗したり、赦したくないと思ったとしても、実際にその人は自分が見ている状態とは違うということになり、安心する。
つまり、
私が責任をとることに失敗しても
誰も悲しませていない。
悲しい状態でいることはできていないんだ!
大切に思う人には
なおさらそう思った。
「よかった!こんなところにこの人はいない!」
奇跡講座の中では
「幻想に対する責任はない。赦す責任だけがある。」
ということが言われている。
その背後には、
赦す責任が取れなかったとしても
その人は愛の存在のまま
というのが『事実』という
誰のことも不幸にできない安心と、責任の重さを感じる必要がない安心がある。
そしてもう一つ嬉しい事実は
結局は、自分は聖霊にしか囲まれていないということ。
どんな人に対してでも
自分が赦せていないだけのことで
実際の姿は私を愛する聖霊だということ。
そう認識できようとできなかろうと関係ない。
そうは見えなくても、そうなんだから!
赦す責任が取れていないから
変な風に見えてしまっているだけ。
私は聖霊だけに囲まれている!
が結論。
責任を取っても、取れなくても
それは変わらない。
失敗しても、赦せなくても
それは変わらない。
事実は、私がなにをヘマしようと
愛の存在に囲まれているということ。
