目の前にある問題について

「いったいどうしたら?」

 

というシチュエーションでは

それがリアルに目の前にあって

急に心が騒がしくなります。

 

 

 

問題や不安で苦しんでいる人が目の前にいる時、

 

子供の将来を考えて自立させたいという思い、

 

間違っている人を正したいという思い、

 

これらはターゲットが他の誰かです。

 

 

 

どうアドバイスしたらよいかとか

どうやって健康にしてあげたらいいかとか

何とか導いて救おうと悩み始めます。

 

そしてこの世界に答えを探し求めてしまいます。

 

 

 

もちろん、コースで言っていることを考えますが、それさえままならなくなります。

 

 

 

でもちゃんと適用しようとさえしていれば、

必ず、

ジーザスが「ここに」いることに気づく瞬間が来て、それらが私を救うためのものだったことがわかります。

 

それはいつも

「誰か」ではなく 「わたし」を救い出します。

 

 

 

 

この世界での考えで行けば

誰かを救おうとしないことはひどいことです。

 

何の対策もしないなんて、自分の罪悪感も生じます。

 

でもコースは違います。

 

救いたいなら、起こっていないと認識することだと言っているんです。

 

 

 

わたしの何らかの隠された信念が

その「救われなければならない誰か」を映し出しているからです。

 

自分で発生させた「可哀そうな人」ということです。

 

そしてその発生をストップさせようとするのではなく、発生しているとしてもそれは本当ではないと認識しなさい、と言っています。

 

 

 

 

こうやって順番を逆にすることが、

はじめはとても難しく感じます。

 

「もしその人が助かったら」

「もしその人が楽になったら」という風に、

 

「現象としての奇跡が起こったら信じる」

「何かいいことが起こったらやっと信じる、やっと奇跡ができたことになる」

という順番が染みついているからです。

 

 

 

それを逆にしなければならない。

 

信頼が先に来なければ、奇跡はやってきません。

 

自分が先にジーザスを信頼することによって、安心して対策を講じるのをやめることができて初めて、奇跡となります。

 

そしてその奇跡とは

幻想として嬉しいことが起こるかもしれないし、そうでないかもしれません。

 

それでも奇跡の体験は、

それをはるかに上回る喜びをもたらしてくれます。

 

 

 

 

わたしがどんどん大事にしたくなることは

ただ「ジーザスがここにいる」

という信頼になってきているように思います。

 

抜け出せない迷路のように感じてばかりいる時は、ジーザスがここにいるとは全く思えなません。

 

 

 

でも、適用して、ちゃんと考えてとやっていると、

 

「例外はないのだから、これもあてはめていいはず。そうしなきゃ。」という強い思いが芽生える日が必ずやってきて、その瞬間に、「ジーザスがここにいる」が実際となります。

 

そして、見ていた問題は自分が発生しているのだと強く思えます。

 

そして可哀そうな人は本当にはいなかった

となり、

 

よかった

となり、

 

わたしがやらなければならないと考えていた対策も

どういう対策が必要かと考えることも

やらなくてもみんな幸せで

わたしにはそんな重荷を負わされてなどいない

と安心します。

 

その安心は

自分で自分を苦しめていたことからの解放で

この苦しみから助けてくれようとしていたのかと

始めてジーザスの計画が分かるのです。

 

どれほど大きな愛によるものだったのだろう と。

 

 

 

 

ジーザスだけをどれだけ信頼できるようになるか?

にすべてがかかっているように思っています。

 

赦しの3ステップも

聖霊を信頼して任せるという第3ステップがとても大好きで、とても大事に思っていいます。

 

ずっと第3ステップ状態であれば、その中で自然に第1・2ステップがなされるから。

 

第3ステップ状態が続けられるようになるほど早く近づいていくように思うのです。

 

 

いつもジーザスとだけいて、

全てをジーザスと見て、

とするなら

どれだけ幸せだろう。

 

愛しか教えてくれていない中にいるとは

どれだけ気持ちいいのだろう。