イエスが今、目の前に現れて
「行こう」
と手を差し出したら?

唐突にその映像が浮かんだ。



私がとっさに出した思いは
「まだ」



「行けない」ではなく
「行かない」の「まだ」だった。

息子、娘、旦那、体が衰えているジージとバーバ、生徒さん、患者さん、、、
私がいないと困る人たちを思った。



行けるのがわかっていて行かないことを選択した気持ちだった。

みんなを放っておけないからと。




その後で何よりも悲しかったのは
本当は、その人たちを私が助けなくても構わないとわかってしまったこと、そして私にはここで何もすべきことがないと認識したこと。



何もすることがないという空白への恐さだった。

しなければならないこと
やり残してあること
できるようになりたいこと
それら全部をしないとなったら
本当に何もすることがないという恐さ。

瞑想もしなくていい
奇跡講座もしなくていい
悟ろうとさえしなくていい
何にもない

そんな!

どうしたら!

ひまじゃん!

これが正直な感覚だった。



よく見れば
それらには大した理由もなかった。

それらの人たちというボロぞうきんをギュッと握りしめながら、手をパーにしなきゃと言っている自分だった。

つかんでいるのがボロぞうきんだとどこかで認識している。

でも助けたいからとか、助けることにさせてとか、つじつまの合わない思いでボロぞうきんを何とか手放さないように必死でいる。




私の助けが必要な人たち。

その人達のためにしなければならないこと、身につけたいもの。

悟りさえも、その人達のために身につけたくもあったようだ。





まったく私の星のままの投影だ。

星でわかることは
私のこの人生での目標や価値感は、「誰かのためにとやることが喜びであり、誰かが助かることが喜び」というもの。

まったく星のまんますぎて。

この星がこの投影を作り上げている。

やっとここに出る星の根深さが深く読めた。

そして、それがイエスの手を取らなかった理由。




とうとうこの星に向き合う時がきた。

私は小さいころからずっと
人が助かる喜びを求めきた。

でも知ってしまったから。

助けが必要な人がいないということが。

本当にすることがないなんて。

どうしたら、、、恐い。




だから、その奥に本当があるってことだ。

突破するために
表に出してくれたのだから間違いなく行ける。