数年前から「悟る」とはどういうことかについて、ひしひしと感じていたものがある。

 

それは「思い出せない」という感覚。

 

前日に、すごいことが「わかった」と思ったはずなのに、具体的に何がどうなって、最終的にどうなってそれに至ったか、全然思い出せないのだ。

 

出来事が起こってからの経緯、

どんな感情が湧いたのかの道のり

なども思い出せない。

 

何を「わかった」と思ったのかも思い出せない。

 

確かにすごい感覚だったことは覚えている。

 

でも、具体的なことが何も思い出せない。

 

すっかり。

 

 

 

はじめのうちは、思い出せないことに対してもったいない気持ちが湧いて、悔しがった。

 

もう一度あの「わかった」経緯や気持ちを思い出したかったからだ。

 

それに、思い出せないのだから後戻りしたのだと悲しんだ。

 

だから、メモをしたりもした。

 

でも、あとでそのモを見たところで

「だから何よ」みたいな感じしかない。

 

それはそれは残念な思いでいっぱいだった。

 

 

 

それで、

私は自分が相当なバカで、記憶力がとても乏しいんだと思った。

 

だから、1件1件、絶対に忘れないように取り組んだ。

 

でも、それでもまったくダメだった。

 

本気で自分はバカか!と思ったし、でも反面、いささかおかしいとも思い。

 

あまりにもその件数が多すぎたからだ。

 

もしくは、私がビックリするくらいの記憶障害ということになる(笑)

 

あまりの気持ち悪さに、しばらく悩み続けた。

 

 

 

 

でも、ある時、ふとこう思った。

 

「きっと、その件に関して、私は本当に分かってしまったから、それに関して私が違う次元に行ってしまったんだ。だからもう、この現象界では二度とそれは見えないんだ。」

 

その頃は奇跡講座をまだやっていなかったから、「違う次元」「現象界」なんていいう表現をしていたのだけれど、なんだか、とても納得がいってしっくりくきた。

 

 

 

 

それから不思議と、思い出そうとすることを諦めるのはもちろん、思い出せないことを喜ぶようになった。

 

分かった証拠、消えちゃった証拠のように思えたからだ。

 

あの気持ちいい感覚さえ、昔に戻って取り戻そうとしなくていい。

 

そしてさらに、問題も減っていったし、人からも「変わった」と言われるようになった。

 

問題は減っていないのだけれど、問題を問題を認識しなくなったのか? と今になって思う。

 

とはいえ、もう問題と認識できないのだとしたら、前と今を比べることすらできない。

 

比較すらできないんだ。

 

自分が成長したかどうかなんて、

一生絶対に把握できないものなんだ!

 

だって、

成長すればするほどただ消えるだけで

消えたものはもう見つけ出せないから

比較のしようがない。

 

 

 

 

だから、この道を一緒に歩き始めている人がこの体験をしているとき、この話をする。

 

「なんか思い出せない」という気持ち悪さは正解だと。

 

そうするとみんな、すごくほっとして喜ぶ。

 

私と同じように、後戻りしていると考えていたからだ。

 

そんな時、誰でもここを通るんだなぁとも思う。

 

そして、考えてみれば当然だとも思う。

 

把握をするのは自我だけだから。

 

だから、どうなるかの予測がついているようじゃダメなんだなあと。

 

 

 

 

「分からない」と言うのは自我だけ。

 

自我が「分からない」と言えば言うほど

私たちは喜べばいいということ。

 

何も把握できないし、見当もできないのだから実際にはとても恐い。

 

分からないまま目をつぶって、さらに手探りもしないで歩くんだから。

 

自分が消えちゃうみたいな気持ちにもなるから、それにも恐い気持ちが湧く。

 

でもそれは、いかに前もって把握したがっていたかにも気づけるルーティン。

 

素晴らしいルーティン。

 

 

 

 

ちゃんと、少しずつ少しずつ勇気が出せるようになって、予想外のことを教えてくれるようになっていく。

 

それは聖霊への信頼が大きくなるのと比例している。

 

一つ一つの体験は、思いがけない喜びと感謝の思いを湧かせてくれ、より天国へのあこがれ増やし、より現象界への魅力を減らしてくれる。

 

「すべてをおまかせします」がどれだけ大切なことか。

 

本当に素晴らしい道。