『私は兄弟の無罪性を見ることを選択する』
このレッスンを今日やっていて
やっとさっき「ああそうか」
となった。
肉眼で見えているものに
そして自我で解釈しているものに
無罪なんて見えない。
それなのに
無罪性を見ることを選択できないと
自分を咎めていたが
それは違った。
聖霊と共に
肉眼でしかと見て
しかと自分の思いを感じて
自我の投影である罪悪感を見ている
としっかり認識すること
これが選択。
これが直視だ。
つい
肉眼の目をそらしながら
赦しをやろうとしがちで
レッスンが変わるたびに
やっとの思いでここにたどり着かなくてはならない。
いろんな形でやって来る投影に
まず幻想をさんざん実在化してしまう。
それで
特別な関係であろう兄弟に無罪性を見なければと、必死にレッスンをしていて気がついた。
イエスもだ。
私たちがこの世界に生まれていないように
イエスだってここに生まれたことなんてないんだ。
そもそも
この世界が無い。
じゃあイエスって誰だ?
ブッダって誰だ?
ということは
私たちが聞いているのは
きっとイエスのストーリーだ。
それなら
そのストーリーはどこから来た?
神だ。神を思い出させてくれる聖霊だ。
それはどこにいる?
私の心の真の部分だ。(きっと)
だって
誰もここに生まれたことがないのだから
肉体としてのイエスがあったはずがない。
それは愛から来た
幻想なんだきっと。
私は神の子の一部に
イエスというお面をつけた。
我が子にも
我が子のお面をつけた。
私にも私というお面をつけた。
お面の中身は
神と共にある神のひとり子。
全員が同一人物。
だからイエスという象徴
イエスという素晴らしい兄弟が
私を赦してほしい
と言ってくれている。
心になかったら
私の人生にイエスという名前が飛び込んでくるはずがない。
だってここがそもそも無い。
覚えていなかったら
出てくるはずのない名前。
私の心は
何かすごいことを覚えているということだ。
もう何が何だかめちゃくちゃになっていく。
いいしっちゃかめっちゃかだ!
❤️❤️❤️❤️❤️❤️❤️✨