奇跡講座には例えばっかりだから
混乱するし
めちゃくちゃになったりする。
実は
いちばんメインの『赦し』そのものに
ずっと疑問がある。
だって
イエスに取り去ってもらうんだよね。
もちろん聖霊でもいい。
でもおかしいじゃん!
だって私たちは一体なんだよね。
イエスとも神とも一体なんだよね。
三位一体。
たとえ本当に分かったとなれていないにしても、事実はそう。
それなのに
なんで私たちとイエスが別々の存在のように表現したのか?
取り去ってくださいと頼むということ。
頼むってことは
二元の主体と客体があることになるじゃん。
頼む人と頼まれる人がいるなら
完全に二元。
確かに
自我に頼まないようにするためには
外の存在のように表現する必要はあるかもしれない。
でも
「お願い」「頼む」をしようとすると
私は自分のどこか外の存在を探す意識になる。
自分とイエスを別々の存在にして
それを実は強めているんじゃないか?
となる。
でも
はじめっから一緒で
はじめっから赦しなんて必要ないくらいの存在
が本当なら
その『大前提』を受け入れよう
とだけ気にかけているほうが
ずっとずっと簡単に
幻想を幻想としておける。
その『大前提』だからこそ
ただありのままに幻想を幻想として見るし
はなっから
幻想を信じない姿勢でいられる。
ことさら思い出す必要もなく
思い出すための時間も必要ない。
もういる前提だとそうなる。
イエスは
「私のところへ持ってきてほしい」
と奇跡講座で言っている。
それも頑張って例えだとらえる。
実際は持って行くことなどできない。
だって
もうすでに持って行ってある。
というよりも
私たちは
無いものを拾えたと思っているだけ。
持って行けてないと思っている自分の思い
無いものを拾えたと思っている思いを
手放していないだけだから。
何も持って行く必要のない状態で
一緒にいる。
あっ忘れてた!
自我と一体化したくなってた!
イエスと聖霊と神と一体の自分側に戻ろう!
みたいな感じなら納得がいく。
だから
頼んでー
っていうクッションってどうなんだろう。
ケニスさんの本で
「取り去ってください」
の言葉がある。
これってはじめは奇跡講座の概念自体が難しいから、書いてくれただけなのかなあ。
ケニスさんもイエスも信頼しています。
頼りです。
だからこそ
取り去ってもやらなきゃ
となるたびに混乱。
私の考えはあってるのか?