私は人を良くしようとばかり考えるようだ。
”自分はさておき”じゃいけないとすごく思っていて、だからすごく頑張るんだけど、だからこそ
「こんな私にだってできたんだから、あなただってできるよ。お互い頑張ろうよ。」
とも当然のように思ってる。
気が付くと、押したり引いたり悪銭苦闘しながら、相手にアプローチしている。
なんとか悟りの方向へ と。
なんでいつもこんな気持ちになるのかずっと考えていた。
何の見返りもなく誰かのためにというのは この世界ではカッコいい感じに見えるけれど、ちっともそうじゃないという気もしていたからだ。
だから、
きっと私が特別でいたいのだと
しばらく前から思いはじめた。
悟っていない人を作り上げている。
悟っていない人に囲まれていたいんじゃないかなあと思う。
そうすれば、自分が必要とされる存在でいられるし、私がまだ悟らないままでいられるし、みんなも悟らせないでおけるから。
悟る悟らないを私がとても重要視しているから、そこに自我が漬け込んできた。
こう考えるとスッキリくる。
そして自分を咎めたくなる思いが浮上するの(笑)
でも反面、純粋にすごく嬉しいことも多い。
神に心を向ける人が周りに増えて、自分でも驚いている。
そっぽ向いていた人がそっちに向くのだから、本当に奇跡だと思う。
どれだけそれが大変かは、長年悪戦苦闘しているからすごくわかる。
そしてその人たちは、奇跡の話や、気づきの話を聞かせてくれる。
神という言葉も連発し始めるし、話したくて仕方なくなる。
これは本当にミラクルで、私がどれだけ嬉しいか。
これらの中には、純粋なものと純粋でないものがひどく入り混じっていると思う。
そしてもう一歩、最近気づいたことがある。
多くの人たちが
”奇跡講座をわざわざやらないでいてくれている人”
という存在なのだということ。
神という言葉すらご法度な人は多い。
それは占いの授業では痛感することが多い。
でも、私の思考はそっちへ向いているから、占いの使い方が、もうそうなっている。
だから、神という言葉も、奇跡講座や聖書に出てくるような言葉を一切使わなくても、生徒さんが知らぬ間にそっちを向いている状態になっているのではないかと思う。
というのも、生徒さん本人が驚くような奇跡的な展開を体験したり、号泣するほどの癒しを体験したりするからだ。
もちろん本人は、奇跡をただの偶然だと思っていたり、占いに書いてある通りとだけ思っていたりするし、号泣するのも「なんで私こんなに泣くんだろう?」とか言う。
でも私の目からはそうは見えていない。
こうやって、生徒さんは占いを使っているだけのつもりだけれど、奇跡を体験している。
私はそれを見せてもらってるの。
結局これが、私が実体験して本当に分かった分は、私の話す様々な言葉や思いに全部含まれていて、ちゃんと届いていくという実証になっている。
「この人たちには奇跡講座いらないじゃん」
なんて思わされるけれど、
もしこれが、
私のために奇跡講座をやらないでいてくれる人達なんだとしたら?と思うと。。。
感謝の思いしか出てこない。
たぶん、この答えは正解だと思う。
だって、神の子じゃない人は一人もいないから、悟る必要がある人なんて、本当はいないんだから。
これをいつも忘れないでいたい。
誰かを神の道へ導きたいと思ったら、いつもこれを思い出したい。