今日は、ある一人の女性の話です。
彼女は、神社仏閣を巡るのが何よりも好きでした。
誰かに誘われなくても、たった一人で全国各地を訪ね歩く。
見知らぬ土地の空気に触れ、
静かな境内に身を置き、
そこでしか感じられない“何か”を受け取る時間が、彼女にとってはかけがえのないものでした。
その日も彼女は、地方のある古い寺を訪れていました。
山あいにひっそりと佇む、決して大きくはないけれど、どこか深い気配をまとった寺でした。
お参りを終え、石段を下りて帰ろうとした、そのときです。
背後から、不意に声がかかりました。
「お嬢さん、ちょっと待ちなさい」
彼女は思わず足を止めました。
振り返ると、そこにはこの寺の住職が立っていました。
突然声をかけられたことに驚きながらも、彼女は軽く会釈をして尋ねました。
「……何でしょうか?」
すると住職は、静かな目で彼女を見つめながら言いました。
「急に呼び止めて、驚かせてしまってすまなかった。じゃが、どうしても伝えておきたいことがあってな」
彼女は一瞬、言葉を失いました。
初めて来た土地。
初めて訪れた寺。
そして、今日初めて会った住職。
そんな相手から「伝えたいことがある」と言われるなんて、どう考えても不思議でした。
何だろう――。
胸の奥に小さなざわめきを感じながら、彼女は住職のほうへ少し歩み寄りました。
すると住職は、少し声を落としてこう言ったのです。
「妙な話に聞こえるかもしれん。じゃが、どうか聞いてほしい。
あなたさんの“第三の目”は、いま閉じておる。……じゃが、完全に閉じているわけではない。
開きかけておるのじゃ」
その言葉を聞いた瞬間、彼女は何を言われたのか理解できませんでした。
第三の目……?
聞いたことはある。
たしか眉間のあたりにある、“もうひとつの目”のこと。
目には見えないけれど、人の直感や本質を見抜く力と関係している――そんな話をどこかで耳にしたことがありました。
でも、それが自分に関係しているなんて、一度も考えたことがなかったのです。
彼女が戸惑っていると、住職はさらに続けました。
「人の人生にはな、幾度か大きな転機が訪れる。
小さな変化もあれば、大きく流れが変わる節目もある。
第三の目が開きかけているというのは、あなたさんが今、そういう大きな転機の入口に立っているということなのじゃろう」
彼女の胸が、どくんと鳴りました。
転機――。
確かに、最近の彼女は、自分でもうまく説明できない“何か”を感じていました。
何も悪くない。
むしろ、恵まれている。
それなのに、なぜか心の奥だけが静かに揺れているのです。
住職はさらに言葉を重ねました。
「ただしな、開きかけておるからといって、必ずしも完全に開くとは限らん。
このまま閉じてしまうこともある」
彼女は息をのみました。
住職は彼女の表情を見つめながら、静かに、しかしはっきりと言いました。
「もし、第三の目が完全に開けば――あなたさんの人生は大きく変わるじゃろう。
それは良い方向へじゃ。
今まで見えておらんかったものが見え、選ばんかった道を選ぶことになるかもしれん。
生き方そのものが変わる者もおる」
そして、少し間を置いてから、こう続けました。
「じゃが、もし開ききれなければ……その目は再び閉じていく。
そうなれば、また静かに、何事もなかったかのように元の人生へ戻っていくだけじゃ」
住職はそこで話を終えると、わずかに微笑んで言いました。
「わしが伝えたかったのは、それだけじゃ。
急に呼び止めてすまなかったな」
彼女は我に返りました。
もっと聞きたい。
それはどういう意味なのか。
第三の目が開くとは、具体的に何をすればいいのか。
今の私は、何を選べばいいのか。
次々に問いがあふれました。
けれど住職は、それ以上何も言わず、くるりと背を向けると、そのまま寺のほうへ戻っていってしまったのです。
彼女はその場に取り残されるように立ち尽くしました。
「私の第三の目が……開きかけている?」
あまりにも唐突で、現実味がありませんでした。
けれど、不思議と笑い飛ばすこともできませんでした。
胸の奥のどこかが、確かにその言葉に反応していたのです。
彼女はその後、予定どおり旅を続け、家へ戻りました。
けれど、帰宅してからも、頭の中はあの住職の言葉でいっぱいでした。
第三の目が開きかけている。
人生の大きな転機に差しかかっている。
完全に開けば、人生は大きく好転する。
でも、開かなければ、元に戻るだけ――。
何度も何度も、その言葉が胸の中で繰り返されました。
では、どうすれば“開く”のだろう。
住職は、その方法を詳しくは教えてくれませんでした。
けれど、たったひとつだけ、確かにヒントを残していたのです。
「自分の直感を信じきること。
そして、その直感に従って行動することじゃ」
その言葉が、後になってじわじわと彼女の内側に沁みこんでいきました。
実は彼女は、大手町にある大企業で働く正社員でした。
誰もが知る一流企業。
そこに就職したとき、周囲は口々に「すごい」と言いました。
彼女は仕事もそつなくこなし、着実に評価され、昇進もしてきました。
上司との関係も悪くない。
同僚とも波風は立たない。
人間関係に大きな悩みもなく、誰が見ても「順調そのもの」の人生でした。
彼女は、いわゆる常識的な人でした。
幼い頃から父に「人と調和して生きなさい」と教えられ、その言葉を大切にしてきました。
だからこそ彼女は、いつも周囲とのバランスを考え、空気を読み、正しそうな選択をして生きてきたのです。
ときには、本当は違うと思う道を選んだこともありました。
けれど、それでも「これで良かったのだ」と自分に言い聞かせてきました。
実際、その選択は間違っていなかったのだと思います。
大きな失敗もなかった。
社会的には、ちゃんと“うまくいっている側”の人生でした。
でも――。
心の奥には、ずっと消えない小さなモヤがありました。
私は、本当にこのままでいいのだろうか。
この会社にいることが、私の本当に進むべき道なのだろうか。
私にしかできないことが、他にあるのではないだろうか。
もっと広い世界が、もっと違う人生が、どこかにあるのではないだろうか。
そんな思いが、日を追うごとに強くなっていたのです。
そしてそのモヤモヤを振り払いたくて、彼女は今回の旅に出ました。
少しでも心を整えたくて。
少しでも自分の内側の声を聞きたくて。
そんな旅の途中で、あの寺の住職に呼び止められたのです。
偶然だったのでしょうか。
それとも、あれは偶然ではなかったのでしょうか。
さらに彼女には、誰もが羨むような恋人もいました。
一流大学を出て、一流企業に勤める、穏やかで誠実な彼。
周囲から見れば、申し分のない相手でした。
このままいけば、数年後にはその彼と結婚し、家庭を持ち、やがて子どもが生まれ、家を買い、穏やかで安定した暮らしを築いていく――。
そんな未来が、彼女の前には自然な流れとして用意されているように見えました。
多くの人が「幸せ」と呼ぶ人生。
何も不足などないように見える人生。
けれど、その未来を思い描けば描くほど、彼女の胸はなぜか、ちくりと痛んだのです。
どうしてだろう。
何が引っかかっているのだろう。
こんなに恵まれているのに。
こんなに整っているのに。
どうして私は、素直に「楽しみ」と思えないのだろう。
理由はわかりませんでした。
考えても、考えても、答えは出ませんでした。
ただ、その“胸がちくっとする感覚”だけが、妙にリアルだったのです。
そして、その感覚に重なるように、再びあの住職の言葉がよみがえりました。
「あなたさんの第三の目は、開きかけている」
彼女の人生は、このまま静かに予定どおり進んでいくのか。
それとも、ここからまったく別の扉が開くのか。
そのとき彼女は、まだ知りませんでした。
これから自分が、今までの“正しさ”では説明できない選択を迫られることになるなんて。
そして――
その最初の合図は、すでに始まっていたのです。
続く。
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