第3話(後編)
「全部、聞こえていた」

「……ち、違……う。」

義父のかすれた声に、その場にいた全員が動きを止めた。

脳梗塞の後遺症で、義父は長い文章を話すことが苦手になっていた。

それでも、その日は違った。

義父は震える左手でテーブルを押さえながら、ゆっくりと顔を上げた。

視線の先にいたのは、義姉だった。


「父さん、大丈夫?」

義姉が笑顔で近づこうとすると、義父は小さく首を横に振った。

「……由美さんは……」

「毎日……来てる……。」

「朝も……夜も……。」

言葉を絞り出すたびに息が乱れる。

それでも義父は話すのをやめなかった。

「助けて……くれてる。」

私は思わず目を伏せた。

そんなふうに思ってくれていたなんて、知らなかった。


義姉は苦笑いを浮かべた。

「お父さん、そんなに無理して話さなくても。」

「私は由美さんを責めたわけじゃないの。」

「ただ、少し大げさかなって思っただけ。」

義父は再び首を振った。

「……大げさ……じゃ……ない。」

「全部……見てた。」

その一言に、義母も黙り込んだ。


義父は窓の外を見つめながら、ゆっくり続けた。

「夜も……。」

「トイレも……。」

「薬も……。」

「全部……。」

短い言葉だった。

それでも十分伝わった。

義父は、私が毎日何をしているのか、ちゃんと見ていたのだ。


部屋の空気を変えたのは、ケアマネジャーだった。

帰り支度をしていたはずが、忘れ物を取りに戻ってきたらしい。

玄関先で一部始終を耳にしてしまったようだった。

「失礼します。」

「少しだけ、お話ししてもよろしいですか。」

義母は慌てて立ち上がった。

「どうぞ……。」

ケアマネジャーは穏やかな口調で言った。

「介護は、一人だけが頑張るものではありません。」

「介護する人が倒れてしまうと、介護そのものが続けられなくなります。」

「ご家族全員で役割を見直す時期かもしれません。」

義母は何も答えられなかった。

義姉もスマートフォンを握ったまま黙っている。


その日の夕方。

私は義父をベッドへ案内し、布団を掛けた。

義父は私の手を、ぎこちなく左手で握った。

「……ありがとう。」

その一言だけだった。

私は笑顔で答えた。

「お礼なんて言わないでください。」

「早く元気になって、一緒に散歩へ行きましょう。」

義父は小さくうなずいた。


帰宅しようと玄関で靴を履いていると、義姉が後ろから声をかけてきた。

「ちょっといい?」

振り返ると、義姉は笑っていた。

けれど、その目は笑っていなかった。

「今日のこと、お父さんも調子が悪かったのよ。」

「あまり真に受けないでね。」

私は何も答えなかった。

その代わり、ポケットの中のスマートフォンをそっと握りしめた。

録音データは、今も消していない。

そして今日、新しく保存したメモがある。

『義父本人が、私の介護を認めた日』

小さな記録かもしれない。

でも、私には大切だった。


翌週。

義母から一本の電話が入る。

「今度の日曜日、親戚も集まることになったの。」

「介護のこと、みんなで話し合いましょう。」

電話を切ったあと、胸騒ぎがした。

義姉が自分から親戚を集めると言い出した理由が、どうしても気になった。

その予感は外れなかった。

親族会議の席で、義姉は私に向かって、誰も予想しなかった言葉を投げつけることになる。

――第4話へ続く。