第1話(前編)
夫が亡くなった日、義母は泣きながら言った。
「お時間です。」
医師の静かな声が病室に響いた瞬間、私は何も考えられなくなった。
夫・健一は、まだ五十八歳だった。
朝はいつも通り「行ってきます」と笑って家を出た。それが最後の会話になるなんて、想像もしていなかった。
会社で突然倒れ、そのまま帰らぬ人となった。
心筋梗塞。
あまりにも突然で、涙さえ出なかった。
病院の廊下で立ち尽くしていると、後ろから義母が私にしがみついてきた。
「どうして……どうして健一が……」
七十九歳になる義母は声を震わせ、子どものように泣き崩れた。
私は必死に義母の背中をさすった。
「お義母さん……」
そのときは、私も同じ気持ちだった。
夫を失った悲しみしかなかったからだ。
葬儀は慌ただしく終わった。
親戚が帰り、静かになった自宅で、私は夫の遺影をぼんやり眺めていた。
その夜、義母が小さな声で言った。
「これからは私しかいないの。」
私は黙って頷いた。
義父は数年前から物忘れが始まり、一人で外出することも難しくなっていた。
夫は生前から何度も言っていた。
「親父と母さんが心配なんだ。」
だから私は自然と口にした。
「できることは私がします。」
義母は涙を流しながら私の手を握った。
「ありがとう。本当にありがとう。」
その手は冷たく、小刻みに震えていた。
私は、このときまだ気づいていなかった。
この「ありがとう」が、人生を大きく変える始まりだったことを。
四十九日を迎える頃、義母から電話があった。
「少し相談があるんだけど……」
私は仕事帰りに義実家へ向かった。
築四十年以上の一軒家。
夫が育った家でもある。
居間に入ると義父はテレビを見つめたまま、私が来たことにも気づかない様子だった。
義母は深いため息をついた。
「もう一人では無理なの。」
「お義父さんのお世話ですか?」
義母は静かに頷いた。
「夜中も起きるし、ご飯も食べたことを忘れるし……」
疲れ切った表情だった。
私は胸が締めつけられた。
「何か手伝えることがあれば……」
その一言を待っていたかのように、義母は顔を上げた。
「一緒に住んでくれない?」
私は言葉を失った。
仕事は片道一時間半。
今の家を離れることになる。
生活は大きく変わる。
それでも、夫が一番心配していたのは両親だった。
私は遺影の前で何度も考えた。
「健一なら、どうしてほしいと思う?」
答えは決まっている気がした。
数日後、私は賃貸マンションを引き払い、義実家へ引っ越した。
新しい生活。
夫はいない。
でも、家族を守ろう。
そう信じていた。
その決意が、後悔へ変わる日が来るとも知らずに。
――後編へ続く。