1話






第4話 「もう、お前の顔も見たくない」

カレンダーに書き込んだ「法律相談」の文字を、私は何度も見返していた。

こんな予定を書いたのは、人生で初めてだった。

若い頃は子どもの授業参観。
運動会。
家族旅行。
夫の出張。

私の予定ではなく、家族の予定ばかりだった。

それで幸せだったはずなのに、いつからか私は、自分が何をしたいのかさえ分からなくなっていた。

相談の日、私は少し早めに家を出た。

「病院へ行ってくるね。」

夫にはそう伝えた。

本当のことを言えば、止められる。
怒鳴られる。
問い詰められる。

そんなことは目に見えていた。

無料法律相談の会場には、同じように順番を待つ人が何人もいた。

若い女性もいれば、年配の男性もいる。

「離婚なんて特別な人がするもの。」

そう思っていた自分が恥ずかしくなった。

相談を担当してくれた弁護士は、五十代くらいの穏やかな女性だった。

「今日はどうされましたか。」

私は市役所で話したことを、もう一度最初から説明した。

途中で何度も涙が出た。

「すみません……。」

そう言うたびに、弁護士は静かに首を振った。

「謝る必要はありません。」

「ゆっくりで大丈夫ですよ。」

一時間近く話を聞いてもらったあと、弁護士は資料を見せながら説明してくれた。

「長年の婚姻期間がありますから、財産分与の対象になるものがあります。」

「年金分割についても確認できます。」

「ご主人名義だからといって、すべて諦める必要はありません。」

私は目を見開いた。

ずっと、「夫のお金」だと思っていた。

でも違う。

結婚して四十年以上、家庭を支えてきた時間も、きちんと評価されるものだった。

「一番大切なのは、焦らないことです。」

「証拠や資料を少しずつ集めてください。」

「そして、もし本当に離婚を決断するなら、安全に家を出られる準備をしましょう。」

帰り道、駅前のベンチに座った。

空を見上げる。

涙が止まらなかった。

悲しい涙ではない。

「私にも選択肢がある。」

その事実が、信じられないほど嬉しかった。

その日の夕方。

家へ帰ると、夫が腕を組んで待っていた。

「病院にしては遅かったな。」

「少し混んでいて。」

「嘘をつくな。」

胸がどきりとした。

夫は私のバッグを見つめている。

「レシートを見せろ。」

「え?」

「病院へ行ったならレシートがあるだろ。」

私は言葉を失った。

そこまで疑われるのか。

そこまで管理されなければいけないのか。

「……捨てたの。」

苦しい言い訳だった。

夫は大きく舌打ちをした。

「最近、お前はおかしい。」

「誰に入れ知恵された。」

「友達か?」

「くだらないことを吹き込まれたんだろ。」

私は黙ったまま立っていた。

反論すれば長くなる。
だから、ずっと黙ってきた。

けれど、その日は違った。

「友達を悪く言わないで。」

たった一言だった。

夫は驚いたように私を見た。

今まで、一度も口答えをしなかった私が、初めて夫の言葉を否定したからだ。

「何だ、その態度は。」

「最近、生意気になったな。」

「生意気じゃない。」

声は震えていた。

でも、不思議と足は震えていなかった。

「私は、あなたのお手伝いさんじゃない。」

部屋の空気が止まった。

夫は立ち上がり、私の目の前まで来た。

「誰が食わせてきたと思ってる。」

その言葉を聞いた瞬間、心の中で何かが切れた。

「二人で築いてきた家でしょう。」

「あなたが仕事をしている間、私は子どもを育てて、家を守ってきた。」

「あなたが安心して働けたのは、誰のおかげなの?」

夫は言葉を失った。

結婚して四十二年。

こんなふうに自分の気持ちを口にしたのは初めてだった。

数秒の沈黙のあと、夫は低い声で言った。

「……もう、お前の顔も見たくない。」

その一言は、昔の私なら泣き崩れていたと思う。

でも違った。

「そう。」

それだけ答えると、私は静かに寝室へ向かった。

ドアを閉めた瞬間、涙があふれた。

怖かった。
本当に怖かった。

それでも、心のどこかが妙に静かだった。

もう戻れない。

そんな気がしていた。

翌朝、美代子へ電話をかける。

「昨日、初めて言い返したの。」

電話の向こうで、美代子はしばらく黙っていた。

そして、優しく言った。

「由紀子、おめでとう。」

「え?」

「昨日は、あなたが自分を取り戻した日だから。」

私は受話器を握ったまま、静かに泣いた。

その日の午後、一冊のノートを買った。

日付を書き、夫に言われたこと、されたこと、自分の気持ちを一つずつ書き始める。

弁護士が言っていた。

「記録は、あなた自身を守る力になります。」

最初のページの最後に、私はこう書いた。

『私は、もう我慢だけの人生には戻らない。』


管理人より

モラハラを受け続けると、「自分が悪い」と思い込んでしまう方が少なくありません。

しかし、自分の気持ちを一度でも言葉にできた瞬間は、大きな一歩です。

すぐに状況は変わらなくても、その一歩が未来を変えるきっかけになることがあります。


体験談募集

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