1話






第3話 初めて「自分のため」に動いた日

通帳を閉じても、しばらく手の震えは止まらなかった。

夫名義の口座がいくつあるのか、私は知らなかった。
退職金がいくら入ったのかも、詳しくは聞かされていない。

「生活に困らせてないんだから、余計なことは知る必要はない。」

何年も前、そう言われたことがある。
その言葉を、私は当たり前のように受け入れてきた。

けれど、その夜は違った。

机の上に並べた通帳や年金の通知書を見つめながら、ふと思った。

「私、自分のお金のことも知らないんだ……。」

六十五年生きてきて、自分の人生なのに、自分の生活がどうなっているのか分からない。

そんなことがあるだろうか。

翌朝。

いつものように朝食を並べると、夫は新聞を読みながら言った。

「今日の昼はカレーでいい。」

「分かった。」

「午後は昼寝するから掃除機はかけるなよ。」

返事をしながらも、私は夫の顔を見ていなかった。

今までなら、その日の予定はすべて夫中心だった。

でも今日は違う。

心の中では、あることを決めていた。

夫が昼食を終えてソファで寝息を立て始めると、私は静かにバッグを持った。

「スーパーへ行ってきます。」

返事はない。

眠っているのを確認すると、私は玄関を閉めた。

向かった先はスーパーではなかった。

市役所だった。

受付で何と言えばいいのか分からず、何度も深呼吸をした。

窓口の女性が優しく声をかけてくれる。

「何かお困りですか?」

その一言だけで、張りつめていた糸が切れそうになった。

「離婚を……考えているんです。」

声は、自分でも驚くほど小さかった。

相談室へ案内され、年配の相談員が話を聞いてくれた。

「ご主人から暴力はありますか?」

「いいえ。」

「暴言や人格を否定するような発言は?」

私は少し考えてから、小さくうなずいた。

「毎日です。」

「料理も掃除も全部否定されます。」

「友達と会うのも嫌がられます。」

「お金のことも何も教えてくれません。」

相談員は静かにメモを取りながら言った。

「それもモラハラの一つと考えられます。」

私は思わず顔を上げた。

「モラハラ……。」

テレビでは聞いたことがある。

でも、自分には関係ないと思っていた。

「長く続くと、ご本人が『自分が悪い』と思い込んでしまうことが少なくありません。」

その言葉に胸が締めつけられた。

私はずっと、自分の努力が足りないから怒られるのだと思っていた。

相談を終え、外へ出ると空はよく晴れていた。

市役所のベンチに座り、ぼんやりと行き交う人を眺める。

赤ちゃんを抱く若いお母さん。
買い物帰りの高齢夫婦。
制服姿の高校生。

みんな、それぞれの人生を歩いている。

私は、自分の人生を歩いてきただろうか。

帰宅すると、夫は機嫌が悪かった。

「遅かったな。」

「スーパーが混んでて。」

嘘をついたことに胸が痛んだ。

けれど、本当のことを話せば何を言われるか分からない。

夕食の最中、夫が突然言った。

「そういえば来月、同窓会の案内が来てたぞ。」

私は顔を上げた。

高校の同窓会だった。

「行きたいなら行けばいい。ただし無駄遣いはするな。」

その言い方に少し腹が立った。

以前なら「ありがとう」と言っていたかもしれない。

でも今は違う。

「自分のお金で行くから大丈夫。」

夫の箸が止まった。

「何だ、その言い方。」

私は何も答えなかった。

心臓は速く打っていた。

たった一言返しただけなのに、こんなに怖い。

それでも、不思議だった。

怖さの奥に、小さな何かが芽生えていた。

それは怒りでも憎しみでもない。

「このまま終わりたくない。」

そんな気持ちだった。

その夜、美代子から電話が入る。

「どうだった?」

「市役所へ行ってきた。」

電話の向こうで、美代子は少しだけ笑った。

「すごいじゃない。」

「違うの。怖かった。」

「怖くても動いたんでしょう?」

その一言で、また涙がこぼれた。

「次はね、無料の弁護士相談も予約してみるといいよ。」

「知識があるだけで、気持ちは全然違うから。」

電話を切ったあと、私はカレンダーを見つめた。

来週の予定は、真っ白だった。

私はゆっくりとペンを取り、初めて自分の予定を書き込んだ。

『法律相談 10:00』

その小さな文字は、誰のためでもない。

四十年以上、家族の予定ばかりを書き込んできたカレンダーに、初めて「私の予定」が刻まれた瞬間だった。