1話





第2話 「まだ人生は終わってないよ」

美代子からもらった手紙を、私はエプロンのポケットに入れたまま何日も持ち歩いていた。

何度も捨てようと思った。
でも、そのたびに手が止まる。

『昔みたいに笑える日が、まだあると思うよ。』

たった一行なのに、不思議なくらい心に残っていた。

その日の朝も、いつもと同じだった。

「おい、コーヒーがぬるい。」

夫は一口飲んだだけでカップをテーブルに置いた。

「すぐ入れ直すね。」

そう言うと、大きなため息が返ってくる。

「本当に気が利かないな。」

もう驚きもしない。
傷ついたという感覚すら薄れていた。

昼前、夫はゴルフ仲間との集まりへ出かけた。

「夕飯までには帰る。」

そう言い残して玄関を出る。

車の音が遠ざかると、家の中はしんと静まり返った。

私は深呼吸をひとつした。

誰も怒鳴らない。
誰も呼びつけない。

たったそれだけで、家の空気が軽くなる。

気づけば、美代子の番号を携帯電話に入力していた。

呼び出し音が二回鳴っただけで、明るい声が聞こえる。

「もしもし?由紀子?」

その声を聞いた瞬間、胸がいっぱいになった。

「急にごめんね。」

「謝ることなんてないじゃない。会わない?」

私は少し迷った。

夫が帰るまでには時間がある。

「うん……。」

それだけ言うのが精一杯だった。

駅前の小さな喫茶店。

学生の頃、二人でよく通った店だった。

店内は少し新しくなっていたけれど、コーヒーの香りは昔のままだった。

「由紀子、痩せたね。」

席に着くなり、美代子がぽつりと言った。

「そうかな。」

「違うよ。痩せたんじゃない。疲れてる。」

その言葉に、私は笑ってごまかそうとした。

「そんなことないよ。」

「あるよ。」

優しい口調だった。
だからこそ、ごまかせなかった。

「……毎日、怒られるの。」

気づけば口が動いていた。

「味噌汁が薄いとか、掃除が下手とか……。」

「テレビがうるさい。」

「歩く音がうるさい。」

「何をしても文句なの。」

話し始めると止まらなかった。

四十年以上ため込んできたものが、一気にあふれ出す。

美代子は途中で一度も口を挟まなかった。

ただ静かに頷きながら聞いてくれた。

「私ね……。」

涙が落ちる。

「怒られないように生きることしか考えてこなかった。」

「今日も機嫌が悪くありませんように。」

「そればっかり。」

ハンカチを差し出した美代子が、小さく笑う。

「由紀子らしくないね。」

「え?」

「昔のあなたはね、一番よく笑う子だった。」

私は目を丸くした。

そんな自分を、もう何十年も思い出していなかったからだ。

「文化祭で転んでも笑ってたでしょう?」

「修学旅行で財布を忘れて大騒ぎしたでしょう?」

思わず吹き出した。

「あったね、そんなこと。」

「ほら、笑った。」

その一言に、また涙があふれた。

「由紀子。」

美代子は私の目を見て、ゆっくりと言った。

「まだ人生、終わってないよ。」

その言葉が胸に突き刺さる。

「六十五歳だから何?」

「あと十年、二十年あるかもしれないのに、その全部を我慢して生きるの?」

私は何も答えられなかった。

そんなこと、一度も考えたことがなかったから。

「離婚しなさい、とは言わない。」

「でも、自分のお金がいくらあるのかくらいは知っておいた方がいい。」

「年金は?」

「貯金は?」

「何も知らないままじゃ、選ぶこともできないよ。」

『選ぶこともできない。』

その言葉が、帰り道まで頭の中で何度も繰り返されていた。

家に着くと、夫はもう帰っていた。

「どこへ行ってた。」

低い声だった。

「友達と少し……。」

「勝手なことするな。」

それだけ言ってテレビへ目を戻す。

以前なら、私は何度も謝っていた。

でもその日だけは違った。

私は黙って夫の横を通り過ぎ、キッチンへ向かった。

その夜。

夫が寝静まったあと、私は何年も開けていなかった引き出しをそっと開いた。

通帳。

年金通知。

保険証券。

ひとつずつ机に並べる。

震える手で通帳を開いた私は、小さく息をのんだ。

「……こんなことになってたの?」

そこには、私がまったく知らなかった現実が記されていた――。