【夫が定年退職した日】第3話
「誰のおかげで飯が食えたと思ってる」その一言で私の心は壊れた

小さな不満が積もり続けていた

夫が定年退職して一年が過ぎようとしていました。

外から見れば、どこにでもいる普通の夫婦だったと思います。

大きな喧嘩もありません。

借金もありません。

浮気が発覚したわけでもありません。

暴力を振るわれたこともありません。

でも。

私の心は少しずつ削られていました。

毎日三度の食事。

掃除。

洗濯。

買い物。

病院の付き添い。

役所の手続き。

町内会。

全部私です。

夫は家にいる時間が増えたのに、家事への参加はほぼゼロでした。

それどころか。

家にいるからこそ仕事が増えたのです。

昼食の準備。

おやつ。

コーヒー。

散らかったリビング。

増え続ける洗濯物。

私は四六時中働いているような気分でした。

なのに。

感謝の言葉はありませんでした。

初めて倒れた日

その年の夏。

私は体調を崩しました。

高熱でした。

朝から立ち上がれません。

頭も痛い。

身体も重い。

久しぶりに本気で辛いと思いました。

私は夫に言いました。

「今日はお昼、自分でお願いできる?」

夫は新聞から目を離さずに答えました。

「何もないの?」

私は驚きました。

冷蔵庫には食材があります。

インスタントラーメンもあります。

冷凍食品もあります。

でも夫は動こうとしません。

結局。

私はふらふらになりながら台所へ立ちました。

鍋を火にかけました。

その途中で立ちくらみがしました。

気付いた時には床に座り込んでいました。

涙が出ました。

熱のせいだけではありません。

情けなかったのです。

六十代になっても。

病気になっても。

私は夫の世話をしている。

その現実が苦しかったのです。

娘の言葉

その夜。

娘に電話をしました。

本当は心配をかけたくありませんでした。

でも誰かに聞いてほしかったのです。

私は泣きながら話しました。

夫のこと。

毎日の生活。

体調を崩した日のこと。

娘は黙って聞いていました。

そして静かに言いました。

「お母さん、もう十分頑張ったよ」

その瞬間。

涙が止まらなくなりました。

私はずっと頑張ってきました。

結婚してから四十年以上。

家族のために生きてきました。

夫の転勤にもついて行きました。

義父母の介護もしました。

子どもも育てました。

でも。

誰かに「頑張ったね」と言われた記憶がありませんでした。

決定的な出来事

それは秋のことでした。

私は友人たちと一泊旅行へ行く予定でした。

学生時代の仲間です。

半年以上前から決まっていました。

ところが出発の一週間前。

夫が不機嫌そうに言いました。

「俺の飯はどうするんだ?」

私は笑いながら言いました。

「二日くらい何とかなるでしょ」

すると夫は怒りました。

「勝手なこと言うな」

私は言葉を失いました。

勝手?

私は四十年以上家族を優先してきました。

旅行だって数年ぶりです。

それなのに。

夫は自分の食事の心配しかしていませんでした。

そして。

あの言葉を言ったのです。

「誰のおかげで飯が食えたと思ってるんだ」

時間が止まった気がしました。

私は夫の顔を見ました。

夫は本気でした。

冗談ではありません。

心の底からそう思っていたのです。

私は静かに聞きました。

「本気で言ってるの?」

夫は言いました。

「当たり前だろ」

「俺が働いたから今の生活があるんだ」

私は何も言えませんでした。

胸の奥で。

何かが音を立てて壊れた気がしました。

初めての家出

翌朝。

私は荷物をまとめました。

大きな荷物ではありません。

数日分の着替えだけです。

夫は驚いていました。

「どこ行くんだ?」

私は答えませんでした。

そして娘の家へ向かいました。

車窓を見ながら。

涙が止まりませんでした。

悲しいのか。

悔しいのか。

自分でも分かりませんでした。

ただ一つだけ確かなことがありました。

私はもう限界だったのです。

娘の家に着くと。

娘は何も聞かず抱きしめてくれました。

そして言いました。

「離婚も選択肢だよ」

私は驚きました。

でも。

否定できませんでした。

なぜならその時。

私の心の中にも同じ言葉が浮かんでいたからです。

離婚。

その二文字が。

初めて現実味を帯びて見えた夜でした。

(第4話へ続く)


■管理人より

熟年離婚のきっかけは、浮気や借金のような大きな出来事とは限りません。

日々の積み重ねや何気ない一言が、長年我慢してきた心を壊してしまうことがあります。

特に「誰のおかげで」という言葉は、家庭を支えてきた配偶者の存在を否定する言葉として深く傷を残します。


■体験談募集

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