かわいいひとは心に残る。

 


 

背が小さいとか目が大きいとかそういった造形美としての基準もさることながら、ひととなりとしてのかわいさが好きだった。



かわいいという言葉のニュアンスは、いまや「ヤバイ」と同じくらい広大な表現を含んでいる。



そろそろ世田谷区の面積より広いんじゃないかな。

 




それでも自分なりの定義を追求したいと思ったのは、知りうるかぎり一番かわいい友達の



「かわいいって相手に言うのは、どんな気持ちなの?込められた意味というか…。」



という言葉がきっかけだった。




 

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自宅のデスクの右側の壁には、妹が誕生日に贈ってくれた一筆箋が貼ってある。



 

手紙に添えられている犬のイラストは
わが家の2歳になる太郎くん(ポメラニアン)だ。



ボールペンで慎重に描いてくれた筆跡と舌を出した表情に愛嬌があり、ふと力が抜ける。




 

 



妹はちょっと不器用だった。 



 

彼女が小学生のころ授業で作ったひよこのぬいぐるみは傑作で、いまでも実家のリビングに置いてある。



きっと玉留めを完全に習得できなかったんだろう。目玉のボタンがカタツムリのように宙に飛び出していて、なんとも言えない不安感をかき立てた。 



このひよこの素晴らしさは、何度見ても笑えることだ。そしていつも妹に怒られる。

 


 

愛嬌たっぷりなひよこの隣には、赤いチェックのテディベアが行儀よく座っている。わたしが夏休みの課題に作ったものだった。



キットを使ってはいるものの、各パーツがそれっぽいところに収まっているので見栄えはいい。 



 

年に数回、帰省するたびにずっと思っていたことがある。妹のひよこには敵わないなぁ、と。



 

そつなくきれいにまとまった言葉や態度よりも、素直さはまっすぐ心にやってきた。

響く、という大げさなことでもなく、印象としてすーっと染み渡る。



 

そんな姿を目にしたときに、たまらなくかわいいと思ってしまう。

 




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太郎くん(2歳・ポメラニアン)は物理的にかわいい。これはどうしようもない。



そんな彼の日々こんこんと湧き水のようにあふれるかわいさの中でも、一番胸を打たれるのはりんごを食べるときだった。



 

 

 

 

なにか明確な基準があるのか、それとも気まぐれなのか。



手渡すと瞬時に食べるものと、くわえたまま部屋中をうろうろしてから慎重に座るポジションを選んで食べるものがある。




うろうろする代表格はりんごだった。

 



落ち着いたかと思うと、においを嗅いだりちょっとなめたりしている。そのあとやっと食べ始めるとき、かわいさのピークがやってくる。



ペットボトルキャップほどの大きさのりんごを一度口で噛み、半分をぽろりとカーペットに落とす。

 


しゃりしゃりと音を立てながらひと口目を食べ終えると、残った半分をまた分割して同じことを繰り返す。




カットしたりんごほどの大きさだと彼は前脚を使うことができない。



なんとか好物のりんごを長く味わうべく、少しずつ食べるために知恵をしぼった姿に心打たれた。

 


かわいいの本質は素直さだと思う。



 

 



自分は素直さと引き替えに器用さを手に入れたのだと、ながらく思っていた。



そのためになんとなく器用な自分をどこか呪っていたのかもしれない。

 



そつなく立ち振る舞い、いろんなことができる自分に価値を見出したかった。でもだんだんそれがすべてを「こなす」ことになっていったように感じてきていた。




仕事も人付き合いも、人生そのものも。




それはとても寂しいことだったんじゃないかな。

 

 




ある日のしいたけさんの言葉に胸が締め付けられる。

 


 

  

 

器用ゆえにできないこともたくさんあるし、不器用だからこそ成り立つものがある。

 


どっちもいいなぁと、いまはそんなふうに思う。

 




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冒頭の友達は、好きなものを最後に食べるくせがあった。



そういうところだよ、といったら怒るだろうか。笑うだろうか。




 

どちらにしてもかわいいことには変わりない。あの子も、あなたも。 

 



そういえば、実家から届いたりんごが山のようにある。

太郎くんの幸せそうなしゃりしゃりが聞きたくなった。




 

 

それでは今日もよい一日を。