先生は、それぞれの学年に
飽きさせないよう
工夫しなければなりません。
片方にレクチャーしている時は
片方の学年は自習。
その自習も、工夫が必要です
(飽きちゃうからね)。
毎月1回くらいのペースで、
研究授業が開かれます。
私たちの教室には、
毎回、5人から、
多くて20人くらいの先生方が
いろんなところから見学に訪れます。
なので、かなり実験的な
授業をしていたと思います。
よく覚えているのが、
「このテーマを覚えるのに、
どう勉強したらいいと
思いますか」
という課題が、結構出てたなということ。
たとえば、算数なんかでは、
割り算とかを身につけるのに
どうやって勉強したら
一番効率がいいか、
みんなで話し合って考えて、
実際にそれをやるんです。
「こういう問題を作ると
いいのではないか」
みたいなことを提案したりして。
自分の勉強が終わると
教室の片隅に積んであるドリルを
各自取りに行って
好きな問題を解いたりも
していました。
研究発表の日は、
私たちの勉強する様子やノートを
見学の先生方がのぞきに来て、
しきりにノートを取っていきます。
体育の時間は大変でした。
なんせ各学年10人しかいません。
ドッジボールをやっても
なかなか当たりません。
バスケットボールの時間は
全員休む暇なく出場です。
そんな調子なので、
私たちは自然と、
どんどん自分の意見を
言うようになりました。
というか、人数が少ないから
言わないといけないし、
言って否定された記憶が
その教室ではほとんどないんです。
ケンカとかも、したような、
しなかったような、
取っ組み合いでケンカすることも
まあありましたけど(笑)
あんまり引きずることはなくて(たぶん・・・)
いつのまにか仲直りしてました。
なんせ、10人しかいないからね。
だから、5年生になって、
通常のクラスに戻った時は
本当にカルチャーショックでした。
ドッジボールで球が投げられれば
一度に何人にも当たるし(!!!!!!)
発言できる機会はほとんどないし
何をするにもとにかく
ついていかなきゃいけなくて。
それまでお昼ご飯を食べるのが遅くて
給食が終わっても延々食べてるのが
普通だった私が、
給食の時間に誰とも喋らなくなって
あっという間に食べ終わるようになったのも
この頃でした。
それでも凹まずにいられたのは、
この年に附属小学校に転任してきた
担任の冨塚先生のおかげでした。
この先生も伝説の先生みたいな人で、
前にいた小学校では
「冨塚先生を
附属小学校にやらないでください!」
という嘆願の署名活動まで
巻き起こったのだそうです。
冨塚先生は、
核エネルギーみたいな
巨大なエネルギーを持つ取扱注意な私を、
すごく大きく包んでくれたんですよね。
つまり、ネガティブに活性化してしまうと
手がつけられなくなって
メルトダウンを起こすまで
誰も止められなくなるけれども、
良い方向に活性化することができれば
ものすごい力を発揮する子だった私は
(今も変わらずですけど)
自分という存在を
受け止めてくれると信じられる地盤が
必要だったんですよね。
私の持ち味とか才能とかを
誰よりも見抜いて開花させてくれた恩師です。
本当に、私という子が一番輝く舞台を
用意してくれる方でした、
というか、どの生徒に対しても
同じように用意してくれる人でした。
冨塚先生がいなかったら、
今の私はいないです。
本当にありがたいです。
だから、去年8月にデンマーク行って
授業の様子を見せてもらった時、
「複式の時みたい」
「附属小学校の時みたい」
って、すごく感じたんです。
それで分かったんですよね。
私がどうして、
今も人前で堂々と意見が言えるのか。
もともと得意だったんですけど、
それが自分の強みだと
子供のうちから理解していた理由が。
私、8才から10才みたいな、
超絶多感で大事なときに、
全人格をまるごと受け止めてもらえる体験をしてた
ってことなんです。
そのあと、小学6年生で転校して、
そこから私のいじめられ人生が
スタートするわけですが、
なんとか生き残れたのは、
あのとき、ものすごい大きな愛情と忍耐で
私の中に自己尊重感っていう柱を
打ち込んでくれた人たちが
いたからなんです。
