気づいていたような
気づかずにいたような
気づいていたけれど
腑に落ちきれてはいなかったような……
最近書いている神さまのお話だけじゃなく
昔話や童話をモチーフにしたもので
必ずと言って良いほど書いて来たのが
「ごめんなさい」
でした。
ありがとう、も同じくらいあるとは思いますが
おそらく、ごめんなさいが多い。
昔は、
謝って欲しい、傷つけたことを
苦しめたことを詫びて欲しい
こちらのほうが強かったのですが
今は、謝って欲しいと言うより
謝りたいんだ、と思うのです。
されたことは覚えていても
したことは忘れて
してもらったことを忘れて
されたことばかり明確に際立たせる。
誰かを悪者にしてしまう
人間の防衛本能による
逃避思考回路に負けたくない一心で
私は、誰にも怒りを抱くまい、としてきました。
代わりに、お話のなかの理不尽さに
激しい憤りを感じてきたところもあります。
そんなところも受けとめてみてなお、
私は、言われたことやされたことよりも
お話のなかの彼らのように
自分が言ったことやしたことで
誰かを傷つけたり苦しめたり
悲しさを与えたかもしれない言動を
話のなかで断罪して、赦されたかったんだと思います。
かわいそうな、
辛い目に遭った彼らを救うより
してしまった、言ってしまった
『悪役』のようなキャラクターを
私は救済してあげたかったんだな。
救済したかったのは反対側だったんです。
謝って、やり直すチャンスを
生まれ変わる光を浴びさせてあげたかった。
私が、謝りたかったから。
自分のした過ちを悔いながらでは
幸せや喜びを受け取りきれない。
例えば本当に些細な、無神経で厚顔無恥な
子ども時代の会話ややり取りで
みんながお互いさまの時代であっても
忘れられない。
なぜならば、
自分自身が、されたり言われたりした
傷や痛みを、長い間引きずって
引きずった、と、それを理由にして
つまずいたり出来ない理由にして
逃げようとしたことがたくさんあったからです。
事実、理由のひとつであったかもしれないけど
いつまでもそのせいにして
自分や誰かを過去に縛り付けても
そこに光は当たらないのですよね。
こんな親だったから
こんな酷いいじめを受けたから
こんな恥を先生にかかされたから
こんな体験をさせられたから
って、
理由を抱えている誰かの原因のなかに
自分がいるかもしれないことが
どうしても耐え難い。
ごめんね、って謝ったところで
赦してはもらえないかもしれないし
そんなこと忘れられてしまっているかもしれない。
自己満足であっても、私は謝りたかった。
謝ってもらうより、謝りたかった。
したりされたりしたことの影に
上手に隠れている罪の意識は
思うよりずっとしぶとくて
だいぶ影響力が強い。
聖人のように
優しさ100%で過ごせた人なんて
おそらくほとんどいませんよね。
誰もが、救い手と英雄と悪役をどこかでしている。
うちも、クソじじいな父だし
デリカシーがない母で
本当にどうかと思う環境でしたが
冷静になれば、
ご飯を食べさせてもらい
帰る家をもらい
どんなに辛かろうが学校に行かせてもらい
給食費を、学費を、受験代を、
カウンセリングの治療費を払ってもらい
たくさんのことをしてもらいました。
されたことも、言われたこともあるけれど
してもらったことは
それに勝るほどあったはずで
いつの間にか、親や環境のせいにして
本来私はやれば出来る人間なのに
出来ない人間にしやがったのは周りだ、
みたいな理由をつけてしまって。
じゃあしのごの言わずにやれよ、って
誰からも突っ込まれないのをいい事に
足りない自分を作り上げるために
悪役を際立たせすぎました。
だから、謝りたい。
罪悪感を手放すっていうのは
生きていてごめんなさい、という
小さくて無力な私じゃなく
誰かを責めたり傷つけたり
不平不満をぶつけたりした、
上から目線の私が抱えた罪悪感。
この、弱いから強くなった
上から目線のやらかし、に
ごめんなさい、を出せたことで
世界からの愛がもっともっと入って来るようになって
涙が出て来るんです、ありがたくて
光が当たると
隠していたものが明らかになる。
その恐さはたまらなく恐いけれど
責められるために当たる光ではなくて
ごめんね、ありがとうって
素直に、それだけを
自分自身や誰かに言える勇気を得て
枷を外して前に向かっていける
大切なプロセスなんだな…って思います