チベット仏教の先生 ヤコブ 指導による サマタ・ヴィパサナ瞑想会。

毎週1回 ヤコブによる 30分くらいの 素晴らしいトークが あり
20分座り 10分歩いて 20分座ります。

毎回 何か 心に響くことがありますが 基本は いつも同じ。

この瞑想で 何をしようとしているか というと

  “何か特別の意識状態を 得ようとしているのではなく
   ただ 今ここにあるものと 和解しようと しているだけだ”

いま この時 自分が どのような状態であれ
それに 取り組んで 何か 別のものに 変えたりとか
より良い 状態を 目指そうとか 言うのではなくて
ただありのままと ともに在る ということ。

  “私自身を含め 正直に 自分自身を みてみれば
   いつも せわしなく 心は飛び回り 
   ある意味 私達は 皆 神経症患者か ノイローゼ患者のようだ。”
    
   “誰にでもある 呼吸と言う ありきたりのもの
    けれど 明らかに 思考ではないものに フォーカスする。
    どのような思考が 起こってきても 快く迎え入れるが
    特別な 注意は払わない。
    素晴らしい聖なる思考も 下劣な思考も 同じように扱う。
    それは ただ 思考と言うだけだ。 どれかを 特別扱いにはしない。
    訪ねてきてくれた人(思考)を 快く 迎え入れたら 
    我が家にいるように くつろいでもらう。
    けれど 自分は 失礼して 自分の仕事(呼吸に気づいていること)に 戻る。
    居たいだけ居たら その内に 客人(思考)は 出て行ってしまうだろう。”

   “私達は 普段 何かすることに 慣れきっているが ここでは 何もしない。
    敢えて言えば Undoing(解く・取り消す) ことを Doing(行っている)”
 
   “これは シンプルだが 普段からすれば とても 過激な事だといえる。”
   “いつものように 従順に 無意識に 思考に付き従うのではなく
    どのような思考が 現れても 快く受入れ それが 消えていくままにする。 
    そして 途切れることがないように 思える 思考の流れを 切り裂いていく。”

濁った水が入ったコップを テーブルの上に 置きっぱなしにしておけば
やがて 不純物は 下に沈み 清浄な水が 現れます。
それが 私達の本来の心。 原初の境地。
智慧や慈愛は 獲得しなければいけないのではなく
そういう心(マインド)に 自ずと 湧き上がってくるもの。
ただ 混乱して 見えなくなっているだけで 私達の心は 元々 無垢だから。 

  “こうして 何もしないで 座ることを 私達は ここで 行っているが
   これは 世界を見渡せば 贅沢なことであり 幸運なことだといえる。
   なので 私の師達(チベットの転生ラマ達)の教えに 従い
   どんな小さな成果であれ 
   自分の小さな ニルヴァーナ(涅槃)達成の為に とっておくのではなく
   それを いきとし生けるもの 全てに捧げる という 心構えは大切であり
   その祈りとともに 瞑想を終えよう。
   その小さな しずくを 大きな海に返してしまえば 決して失われることはない”