私が作るものは雑多だ

何かしら雑なところが残っているし

そしていろいろな要素が混ざってる

私は雑多を愛している

洗練されて美しいものも

もちろんいいんだが

私の中にはそれはあまりなくて

雑多感の

勢いを愛しているし

綺麗すぎるものを

避けたい気持ちがある

優等生になりきれない感じ

優等生にも隙はあるでしょう的な考えがあって

全てがオールクリアで欠けがなく十分に揃ったもの

というものを愛せない


そういう面が気に入られないこともある

批判されたり意地悪を言われたりして

少し萎える

そう言われることを

そう言われたことを

回避したくて

創作をやめていた期間が長くあった

でも創作を始めてみると

楽しくなってしまい

自分の思うように作り

形になると

すごい満足感がある

それだけに幸せを感じて生きている感はある


そうした創作活動は

私が私を取り戻していく過程と言える

私が私を取り戻したら

すっかりそんなものは興味をなくしてしまって

何も作り出さなくなってしまうかもしれない

ずっと作り続けるかもしれない

それは分からないが

手を動かして得る感覚や

頭の中のものを具現化する

その過程が好きだということだ

技術がつけば

少しくらい洗練された作品は生まれるかもしれないけれど

それは私の本意ではない

それを見ていて

それを使ってみて

つまらなくなってしまうであろう

その感覚はいつもそこにある


意地悪を言われて創作をやめて

綺麗な作品を作ってつまらなくなって創作をやめて

結局やめてしまったことを

今になってまとめてやっている

それだけだ


かつて私は生きるだけに必死だった

目の前のことをこなすだけで必死だった

それ以外は

私の眼中の外はどうでもよかった

本当にどうでもよかった

そんなことは生死に関わらない

マナーやら

人にどう見えるかなんて

どうでもよかった

人々がそのことを気にするのに

全然理解が及ばなかった

何だか全く余裕がなかった

余裕のないうちに

結婚して

子どもを生んで

家事をやって

子どもを育てていた

私の中に余裕という隙間はなかった

そのうちに介護が始まって

気がついたら両親が亡くなった

私に残っているのは

その間に浴びせかけられた

思いやりのない言葉たちで

私はそれを捨てることができずに生きてしまった


子どもたちが道に迷う

私が経験したことのない

とてもデリケートな問題だ

そんなことはうっちゃって

蹴飛ばして

無かったことのようにして

生きてきた私には

まるで想像ができない

時には聞いていて笑ってしまう

失敬な話だが

子どもの悩みに笑ってしまう

そんなことに悩んでいるのか

この感覚は両親が私に感じていたものに近いかもしれない

でもそこで無機質に応えてしまったら

また私ができるだけなので

私はできるだけのことはする

できるだけの心寄せをする

少しずつではあるが

状況が好転しているのを感じる

こうやって歴史は繰り返し

少しずつではあるが

賢明に良くなっていく

私は笑いながらそれを見守る

それが私が幼い頃から思い描いてきた夢の世界だ






アジサイが綺麗に見える季節だ。かつてアジサイほどつまらない花はないと思っていた。ぼんやりしてつまらない色。今はその季節になって様々な表情を見せてくれるその花のことが好きになった。ファンになった。


最近ひとりになって自分時間を好きなように過ごすことで、眼球の中に涙が通っていくのを感じる。感動しているのだ。今までだって好きなことをして、開放感を感じて、気分がよくなったりしたが、それとは違う、自分の心の声を聴いて、自分を自分で癒やしている感覚。そういうものをどれだけうっちゃってきたのだろう。自分には贅沢だとか、お金の無駄だとか、そういうことよりも、スキルを磨くとか、自分を貶めてきた。何でだろう。一目瞭然で家族は自分のことをしているのに、私は何で私のことを私のためにできなかったのだろう。不思議だ。