冥府に確かに存在していた三途の川の現実は、遥かに醜悪で悍(おぞ)ましいものでした…其れは、水が一滴も流れていない、蛇だけが際限も無く流れ行く凄まじい迄の川だったのです。



其の数凡そ数百万匹。
河川の上流より下流へ向けて、どっと流れ蠢いている。
手前の岸から向こうの岸迄、其の幅凡そ二百メートル。
浅瀬を越えて、徐々に足に纏い付き、軈て首迄埋める。

赤褐色の地に其れより濃い色の銭形の斑点があちらこちらに並んで、体長四十〜五十センチ、毒腺が発達した三角頭の鎌首を擡(もた)げ、とぐろを巻いて流れている。

三角首が伸びる。裂けた口角から毒牙が鋭利な毒針を剥き出し、不気味な嵐の夜の雷鳴に怒る稲妻の様に、ビリビリッ、ピリピリッと舌を舐め回す。


暗褐色の鱗が体のうねりと共に息遣い、ヌルリと冷ややかに音も無く足の指先から脹脛(ふくらはぎ)を越えて、股の間迄這い上がる。

ヒヤッと冷たく、鱗の軋む音がザワザワと幽体を掻き分け、身体に深くのめり込んで、再び其の鎌首を擡(もた)げて登る。

一匹…二匹…三匹…四匹…。

内腿に吸着した血吸蛭(ひる)に似て、這い上がる蝮(まむし)の腹の気味の悪い感触。

三角頭が腰元を越え、背中へ回り込んだ。

もう一匹が腹を這い、胸に登り詰めた。

眉間迄異様に光る褐色の鱗に包まれた、眉間を境にキラッと"どす赤い"眼球が覗いた。

目と鼻の間に、ピットオルガンと呼ばれる、深い窪みが幽体の閃光へ向けて鋭敏に感応する。

私の自らの眼球へ向けて更に這い登る。


蝮の渦巻く川を、口腔を真一文字に引き締めて、強烈に顔面を歪め、苦痛に打ち拉折れんばかりに堪えて堪えて、三途の川を渡る弁護士の幽体に情容赦無く襲い掛かる蛇の群れ。

其れでも堪えて、歯を喰い縛り、うめき声すら立てない気骨。

登り詰める蝮の群れを、両の手で払い除け、徐々に河川の中央へと進んで行く。


既に胴を巻かれ、首筋に無数に纏い付く蝮は、更に不気味な茶褐色の斑点をうねらせ、耳の穴から、鼻の穴、眼を抉り抜いて這い出した。

髪の毛は逆立ち、顔色は失われ、苦痛の歪みのみで表情を形造る。

無我夢中にそんな川を渡る。

とても時間では計れない。

顔面が蛇の流れにどっぷりと浸かった時、弁護士の姿は数万匹の蝮の大群の中に姿を消した…。


何処からか、啜り泣きの声が聞こえて来る。

苦悶に絶叫する声も…。

気の狂わんばかりの喚き声も、癇声(かんごえ)も、《総て人間の犯せし宿業の流れに逆らう術を知らず、此の川を万人が渡らねば成らない》。

《孤房の果てに、此処でもたった一人自分自身との闘いに打ち勝たねば成らない》。

何千と言う霊魂が"鬨(とき)の声"を思い思いに上げて、三途の川を渡って行く。

僅か二百メーター程の対岸への距離に、未だ現界で味わった事の無い苦しみを、死の直後から体験させられて、蝮の大群は永遠に果つる事無く、大河の流れをうねらせている。


突如…川面を蹴って蛇の群れから、飛び跳ねた五体。明らかに苦し紛れに躍り上がった。

そして、再び落下した。

起き上がっては又歩く。払えども払えども纏い付く。

両手を振り翳し眼球を占拠した蝮を抜き取る。

鼻の穴に吸着した蝮の三角頭を毟り取って川面に投げ付ける。そして、やっと一歩を対岸に進めて行く。

三途の川に死体が浮いていると思いきや、死体では無い。

気を失って倒れている幽体。

腰を落として一歩も進めない幽体。

対岸を眺めて茫然自失、一歩も足を踏み入れぬ幽体。

《誰が好んで此の川を渡ろうか。

今、深く人類の業果の悲しみを一度は味わわねば成らない実在。

此れが三途の川の真の姿であった》。


徐ろに心を鎮め、一息を吐(つ)いた時、弁護士の顔にやっと安堵の色が浮かんでいた。

必死の思いで三途の川を渡り切った感慨。

其れにしても凄まじい残忍。

其れも今は、恐ろしい体験のみを残して過ぎ去った…。


弁護士の幽体を覆って、弁護士に成り済ました教員の青年も対岸に辿り着くや、流石に弱音を吐いた。

「私は元来蛇が嫌いで、一目見ただけでも、背筋に悪寒が走るのです。

三途の川だけは、何度渡っても堪えられない程の辛さを味わいます。

然し、《此れが人類の業(カルマ)とて、避けて通る事が出来ず、霊界人が悉く思い出したくも無い、苦しい体験》と成っています。


そうそう、貴方様も夢を御覧に成った事がお有りでしょう。

無数の蛇に取り巻かれて一歩も動けない。

逃れ様として思うに任せず、必死に藻掻き苦しむ蛇の夢…気が付いた時は、汗びっしょりに成って"怖かった…夢で良かった…夢で"と、自らの正夢であった事に胸を撫で下ろす。

そんな経験がお有りでしょう。

《人間は何度も何度も、生まれ変わり死に変わりを重ねていますから、死出の旅路には、必ず通過せねば成らない此の苦い体験を、既に深層意識の中に胎蔵している訳です。

時折現れる此の正夢は、霊夢であって、三途の川の出来事の蘇りなのです》。

其れにしても、辛い死出の旅路ですよね」


青年が嫌がった理由は、此の体験の残酷さに有った。

思わず申し訳無さに、身の竦む思いがしたものである。


「其れにしても、此の弁護士の偉丈夫には驚かされます。

矢張り天下に名を成した一級の御仁。気骨と言い、信念と言い、第一級の人物だと感心させられます。

此の素晴らしい彼が、何故地獄第三層へ堕ち行くのか…其の理由も、間も無く判明する事でしょう。


《三途の川を越えれば、次は『閻魔の庁』です》。

其れでは、再び御案内申し上げましょう」

…と、青年教師は告げた。


     ―以下つづく―