
昏睡状態から醒めた弁護士は、キョトンとして辺りを見渡した。
あれから何ヶ月が経ったのであろうか。
既に遺体も無いし、家族の一人として居ない。
夢、幻の様な朦朧とした想念も無い。
明らかに、死に直面した『冥界』も、今では遠い彼方に追い遣られ、追憶の瑣事(さじ)にも成らない。
有るのは暗い夜道をトボトボと、然(さ)りとて目的も無く、多くの亡霊達の歩く流れに従って、無味乾燥な荒野を何故かしら歩んでいる。
周囲全体が灯りの無いトンネルの様にも観えるが、良く目を澄ませて見ると、薄暗い荒れ果てた野原。
幻想では無い。
観念などと言う肉体的頭脳的の其れでは勿論無い。
夢を視ているのでは無い。
明らかに亡者が死出の旅路に白衣の薄物を纏い、見るからに不格好な衣裳に包まれて、女は髪の毛の長い者も、又短くパーマの掛かった侭の髪型に薄化粧を施し、青褪めた顔に精気無く虚ろに下向いて、中には杖を持ち、お遍路さんの巡禮姿の老婆も草鞋(わらじ)を履く者、素足の者と、まちまちな服装に尚、額の中央に事も有ろうに三角の紐に結わえた布切れを張り付けて…。
時には、真珠のネックレスを首に飾り、指には幾多の指輪を嵌め、中にはイヤリングで耳飾りをする者。マニュキュアに爪を赤く染め、何とも奇妙な格好で、然も確かに歩いている。
皆が行く…皆が歩く…一定方向へ向けて、皆が歩いて行く。
周囲には五十人…否、数百人に及ぶやも知れない。
音を立てずに歩いて行く。
素足の者が痛みを感じるのか、時折ギクッと足を曲げる。
男も歩いている。
ゴツゴツとした筋骨質の者。肥満体の者。痩せこけて見るも痛ましい矮小の体躯。目付きだけが矢鱈に鋭く、そうかと言うと淫らな眼。
見窄(みすぼ)らしい粗末な女。
パリッとした背広姿の者も居る。でも靴は履いていない。
おかしな格好の男が一人一人…脇道に反れる事も無く、皆同じ方向へ向けて歩いている。
其の大勢の中の一人に弁護士が居た。
彼は新調したグレーの背広に、彼が最も好んで着していたブルーのストライプのネクタイが映えている。
彼が常に裁判所へ出掛ける前に、鏡に映し締めていたものである。妻の好みのネクタイであり、妻のたっての要望に拠って、其れを着せて納棺したものであった。
「弁護士は二ヶ月間、眠り続けて覚醒したものです。
実は此れからが本当の『死出の旅路』…でも彼は非常に速い目覚めをしています。
此の《目覚めは人に因って異なりますが、遅い人で二百年、二百五十年と眠り続けている人も居ます》。
此れから幽界第一の関所『三途の川』へ向かいます…」
亡者の流れに添って、青年は弁護士に成り済まして歩いている。
皆…黙々と歩いている。
段々…段々と道が狭く成り始めた。
辺りの様子が変り始めた。
何故か其処へ行かねば成らない衝動…此の道は、周囲に霧が恰も粉末の鉄粉を撒いた様に…然も、其れ自体がまるで磁石を思わせるかの様に、吸い付いて其の暗闇に引っ張り込まれて行く様である。
力が有る。
丁度、ベルトコンベアに乗っている様で、足は然程地に付いている様に思えないのに、引きづられて歩く。
否応なしに歩かねば成らない。
まるで空中を浮遊する様な…皆が歩いているから歩く。
何故か、気怠く心に張りも無く、只歩かねば成らないから歩く…と言うより、矢張り引き付けられて歩く。
生温かい黒い霧…急激に寒く凍える寒さ。
時は無く…雨上りの夕暮れのガスに覆われた山。
頭の先から足の先迄、スッポリと包まれた細い冷たい霧…男も女も子供も連なって歩く。
何か別の力が、私を招く。
行けども行けども際限無く霧が薄く流れているかと思うと濃く…然し人霊の歩く後ろ姿だけは、霧の中にくっきりと浮かんでいる。
所謂…亡霊である。
歩いていると言うよりは、流れている。
道が痛く成った。
刺の有る岩襞(いわひだ)に突き刺さった足の平が痛い。
考えが蘇らない。
眠さは無い。
其処では恐怖も不安も焦がれも、無目標の侭、判別が付かない。
幽かに誰かが私を呼ぶ様だ。
読経の文句なのか、悲しみの涙声なのか、幽かに微かに虫の鳴く声よりも小さく、かすかに聞こえて来る。
でも耳を傾ける意欲も意志も無い。
空ろなのか…然しボンヤリでも無い。
何処かへ行かなければ成らない…と言う意識だけは確かに有る。
唯…トボトボと歩く。
「此れが『死出の旅路』つまり門出ですよ…」
突然、声を掛けられて、我に返った。
矢張り青年は、其の瞬間の情態を再現させて、私の意識に呼び掛けてくれた。
其れも束の間…今度は暗い長いトンネルに入ったのである。
―以下つづく―