軈て、青年は『生と死の境』に就いて語ってくれた。

「死は自分の意志とは全く無関係に遣って来ます。

嘗ては全身を引き裂かれる様な肉体の痛みが、強烈な電流に接触した様に、此の肉塊を走り回った…痛かった苦しかった…たった一人で…然も誰にも打ち明けられない孤独との闘い。

誰も解ってくれ無い心細さ…もう言葉には言い尽くせない生への限り無き執着も、既に事切れる瞬間…何時しか忘我の境を彷徨い、流れ流れて歩き続ける夢遊病者の記憶無き一時(ひととき)…もう肉体で無い霊界人間としての行動が幽体分離の一瞬から始まり出します。

此の瞬間…此れを肉体と幽体との境い目…どう表現すれば良いのでしょうか…。

仮に『冥界』とでも呼ばせて頂きましょうか。


でも、《此の瞬間に『幻覚』が起こる。

幻覚としか言い様の無い現象が、現界·幽界·霊界を同時に映し出し、過去の記憶や経験を内在し乍ら、肉体で無い幽体の視聴覚が動き出す。

つまり、〘幽界人間への始動…此れが幽体分離の現象〙なのです》。

又、此の《幽体と言うのは、肉体人間の持つ眼や耳、鼻や口更に臍や性器等の所謂穴の空いている箇所から流れ出し、身長よりやや上回る大きさに形造られ、人体と全く変り無き容姿を保ちます》。

更に《死の直後、魂の高い御魂は、眼や鼻、耳など人体の頭部や顔面を中心に、魂の低い御魂は主に性器や時には肛門からも流れ出て形造られますので、死後霊界での行脚する階層が、死の直後の幽体分離に於いて、概ね判別する事も出来る》訳です」


成る程、弁護士の遺体の上に、やや身長を上回る人型の姿をした幽体が、今し方、足元から這い上がり、陽炎が徐々に凝固して寒天の様な量感を創り出し、遺体の上下に添い寝する様な格好の幽体が向かい合う形で、形成されている。

眼も鼻も耳も唇も、首も胴も、手も足も人体と何等変わりが無い。

下には遺体、上にはガス体…完全に分離した二つの人体が五十センチ程の間隔を置いて、二段に重なって見える。

青年が憑依しているのは、明らかに此の上段に横たわる弁護士の幽体…そして《死の瞬間》肉体の感性から幽体の意識へ移行する境い目…彼が『冥界』と呼ぶ此の一瞬に…異常な出来事を目撃したのである。


其れは余りに奇妙な出来事であった。


増々遠退く家族達の泣き声。

虫の息より、もっともっと小さく微かな声が…然も鮮明に聞こえる。

聞こえると言うより、寧ろ《観える》と言った感慨…遠く遠く更に遠く。

でも《鮮明に観える声》。

段々とそんな声にも無関心と成った時…直ぐ側に光光と輝く秀麗の天使が一体。

別に銀髪の品の良い着物姿の老婆が一体。

更に、徳川時代御目付役奉行姿の年の頃三十歳位の青年の霊が一体。

遺体の直ぐ側に姿を現したのである。


絶世の美女を思わせる、光輝く天使が甘美で妖艶な意念を弁護士に送った。

「私が御案内しましょう」

天使の背後には、得も言われぬ美しい御花畑が美しい野原を蔽(おお)っている。

タンポポに菫草(すみれそう)…長閑(のどか)な高原の春を想わせて、紛れも無く之が極楽かと感じさせる景観。

再び天使はベッドに横たわる遺体の足元の方から意念を送り届けた。

「私と一緒に御出ください」

暫くして、銀髪の老女が呼び出した。

「雅樹…私ですよ…貴方は私の曾孫…お婆ちゃんだよ…私とおいで…お婆ちゃんが連れて行って上げる…だから私と一緒においで。」

ベッドの横脇に佇んだ老婆は着物姿が誠に良く似合う…何処と無く家柄を偲ばせる品の良い霊体であった。

一方…御奉行姿の青年は黙して語らない。

ベッドの枕元に佇み、腰に大刀と脇差の二振りを差した、堂々たる体格の武士である。

微動だにしない。

此の時。

弁護士の意念が揺れ動いた。

そして、天使の発する意念と合流した。

「いけない!そっちへ行ってはいけない!」

老婆の凄まじい絶叫!!

一瞬、枕辺に佇む御奉行姿の青年の顔容が歪んだ。

顕(あらわ)にした。

然し断じて黙して語ろうとはしない。

そして…静かに消えて行った。


此の不可解な光景の後…弁護士は昏睡状態に入って行ったのである。


青年は此の《死の直後》の情態を次の様に明らかに語ってくれた。

「広義に於て『冥界』も幽界の一部です。

此の世界は、善霊も悪霊も魑魅魍魎の類のものも、総て同居しています。

彼の場合、《幻覚の中に現世·幽界·霊界が混在しています。

老婆と奉行青年は霊体での迎え。

天使は幽体で迎えに来ている》。

でも弁護士の選択は、己れの現世に生きた過去の人生観と、彼の犯した宗教的罪悪とが、彼の造り出した業と成って…然し、彼は途轍も無い誤りを仕出かした。

良く御覧ください…あの天使の姿を…」


そう言われて、私は再び其の天使を凝視した。

「あっ…!」と動転したのである。

紛れも無く…先程の小高い丘で、脱ぎ捨てられた轢死体の女の幽体に憑依した魑魅魍魎ではないか。

白衣と見えし天使の衣は、痛み切った轢死体の幽体に飾り付けた白狐の表皮。

然も尻尾は隠された侭、後ろにありありと見えるではないか。


明らかに動物霊…然も、化粧して首無き女の首に、天使に見せ掛けた白狐が憑依して、恰も妖艶な女に成り済ましている。

美しいと辺りの景色に比較して、そう思えた御花畑も木々の緑も、実は此等の動物霊の屯す棲家…実は荒涼たる原野の幻覚であった。


《弁護士の幻覚想念が動物霊の虚偽と一致した》。

でも、彼の幽かな意識の奥で、何者かに因って救われた様な安堵の表情が観える。

どうして彼が…検事生活二十年。

絶対に検事は嘘を付いては成らない…と、被疑者に騙され続けて来た末に、自らが確立した人生観は、常に被害者の立場に立って、正義を追求して来た一生であった。

弁護士とは名ばかりで、逆に検事時代に嫌と言う程、矛盾した事件の顛末の中で、常に加害者を擁護し、黒を白と導いた虚偽の弁明に如何程苦汁を舐めた事か…。

彼に執っては、検事の血が常に巨悪に挑む正直者を以て最大の誇りと生きて来た筈なのに…。


何故に…死の間際…虚偽の天使に魅せられて、轢死体の首の無い女に導かれて…何故地獄へと堕ちて行かねば成らないのかと…。

私は慌てて青年に問い掛けたのであった。

「では銀髪の老婆は何だったのですか?

御奉行姿の青年は一体何だったのですか?」

青年は身を乗り出す様にして、次の様に答えたのである。


「《銀髪の老婆は、彼の祖先霊で夢幻界の住人。

御奉行姿の青年は色彩界上層部の住人で、彼の御主護霊。

そして、此の二体は、もう二度と彼の前には現れる事が有りません》。

哀れなのは、末魂の弁護士です。

天使に化けた魑魅魍魎の類に惑わされて、高々霊界下層の住人つまり地獄に屯す『動物霊の幽体憑依』に引っ掛かった。

《現界では、職業に因る社会的地位が持て囃されて、其の名声と言い、家柄と言い申し分の無い人物でも、霊的知識の教養の無さに因る、祖先崇拝や、況して主護霊の実在の教養も無い》。

矢張り、《彼に相応しき偽善者の幻影が、自らの道を選択した必然の結果として、彼自身地獄へ直行する破目に成った》ものなのです。


《現界では、名声と社会的地位の覆いの元に虚偽や偽善者が罷り通る世の中かも知れませんが、幽界も霊界も総て己れの相応しきに生きる世界》なのです。


何故彼が地獄へ堕ちねば為らなく成ったのかは、間も無く解ります…次を急ぐ事にしましょう。」


       ―以下つづく―