『古事記』『日本書紀』以前にも日本には文字が有った事は、僕の記事でも再三述べて参りましたので、繰り返しませんが、其の事は『日本書紀』等に《ある書に曰く》等と有る事からも推測可能な訳です。其の点を学者さんが何故考慮して観なかったのかは知りませんが、皆其処に関しては公式には曖昧な侭に現在に至っている様なのです…


ともあれ、時の御用学者達の立場では偽書、贋作と呆気無く断じられた書物は日本中に夥しいものが有ります。書物と言うより、石に、竹に、皮に刻まれたり彫り込まれた古代文字、神代文字と言う日本語が多く遺っています。


明治半ばから三十年程に亘り『富士古文献』所謂『宮下文書』から三輪義熙(よしひろ)氏が起こした『神皇紀』や『竹内古文献』と言う記紀以前に著されたものには神武天皇以前の王朝の存在と神武天皇に至る天皇一族とも言える膨大な歴史記録が認められていたのですが…。

中国と言う大国礼賛の余り我を忘れた、当時の佛教徒の過激な一派の画策故か、日本語は無かった事にされ、日本人は文盲の幼稚な未開人の立場へと、公式な立場に於いて貶められた訳です。

だから《一書(あるふみ)に曰く》が何の事かも記せなく成り、記紀そのもの迄も真贋を疑う輩迄出て仕舞う事にも、近年は成る訳ですね。


神武天皇の東征の件りで、神武天皇即ち神倭伊波禮毘古命(かむやまといわれひこのみこと)のお持ちに成っていた《三種の神器》と、邇藝速日命(にぎはやひのみこと)のお持ちに成る《十種の神宝》とで、何れが本家か分家かを確認する場面が出て参ります。

邇藝速日命の皇后様が那賀須泥毘古(ながすねひこ)の妹だった為に、妹婿を天皇としたくて彼は断固として邇藝速日命を擁立して神倭伊波禮毘古命に戦いを挑み、神倭伊波禮毘古命の御兄様に当たられた五瀬命(いつせのみこと)が戦死するに至ったと言う事が描かれる訳ですが、《戦いでは無く此の家宝を比べて本家分家を明確にしようとする事が重要なのですが、抑が記紀に於いてはっきりしないのですが、此の件りは暗黙の内に、天皇の一族が既に多数存在していたと言う事を告げている》訳なのです。

つまり、《古事記以前に消えた皇が大勢居なければ、本家、分家等と言う事は有り得無い》のです。

と言う事は、神武天皇以前から日本は天津神の国だったと言う事なのです。

戦に及んだのは、那賀須泥毘古と言う"分からず屋"が個人の欲得絡みで逆らった結果に拠るものであったと言う事に成ります。


如何に我々が信じさせられている記紀以前には、文字も無く文盲であった未開人の日本人が記紀以降僅か百年そこそこで、漢字、平仮名、カタカナを日本中で使い熟せる達人を輩出する文化国家に変貌した等と言う方が、実は穴だらけ、矛盾だらけの歴史と言えるのでは無いでしょうか。

創り話と烙印を押された書物には理に適った、日本の歴史が細やかに描かれている事に驚きを隠せないのです。

御神霊は当然に此等偽書とされる書物を正統なる歴史書と認定されている訳ですが…。

尤も、現代の人々は、認めて下される神そのものを、存在しない妄想、空想の産物としか観る事が出来ない日本人が大多数と言うのも事実なのですが…。


こうして、当然の事乍ら、記紀以前の日本の歴史が消えると共に、例えば天照王朝であり日子穂々出見王朝と共に日子穂々出見之大神と言う初代天皇の御名も消えて行ったのです。

実は神武天皇と言う御方は記紀が歴史の始まりとする現在の歴史観では初代天皇で在られる訳ですが、記紀以前の歴史書に於いては、初代鵜葺草葺不合命から数えて七十三人目の鵜葺草葺不合命が実は神武天皇だったと言うのです。つまり鵜葺草葺不合命と言う御方は七十三人居たと言う事です。


当時は初代の御方の名前を継ぐと言う事が当たり前だったのですね。

因みに、天照坐主大神と言う御方は八人御在したし、日子穂々出見之大神と言う御方も八人御在したと言います。

然し、記録上は初代御一人の事績として残ったのです。

其れで異様に長命な人が歴史を遡る程増えて来た訳ですね。

現代の感覚では二百歳なんていい加減な記録としか受け取れませんから…信憑性の無い偽書との烙印を押して仕舞うのも宜(むべ)なる哉と言う訳です。


こう言う事は、実は記紀にも起こっていたのです。

神武天皇は百二十七歳で崩御召された事に成っています…此の事からも神武天皇が実在成されて居なかったと言われる一因でも有る訳ですね。

孝霊天皇も百二十八歳で崩御召されて居られる。

神武天皇から崇神天皇迄の十代で六百六十年…長過ぎると言う訳です。

然し、十代と観るから長過ぎるのであって、実は十八代と観れば普通の人間の寿命と観る事は出来るのです。

実は神武天皇は御一人では無かったのです。

初代神武天皇は《神倭伊波禮毘古命》で二代目神武天皇は《手研耳命(たきしみみのみこと)》と言う御方が綏靖天皇の間に御出に成られたと言う訳です。

本当は此の様に観て行かないと成らんのです。

昔は、同じ家に住んだ人を同一名で扱われても居た様です。

現在でも、歌舞伎や能楽の世界に此の襲名と言うのが残っている訳だけれど、元々は天皇家で成されていたと言う訳ですね。


白日様の仰せでは、此の七十三人の鵜葺草葺不合命の時代に、日本の汎ゆる基礎…法律から何から何迄…が固められた重要な時代だったと言いますから、其の意味でも歴史から消されたと考えるのが適当だとも言えるかも知れないですね。

実は、当時、地殻変動が有って、地球が凍って仕舞ったと言う事も、其れ以前の歴史が消えて仕舞った要因の一つだった様なのです。

凍ったのは五十度線辺り迄だったそうですが…丁度日本領とロシアの境界線が五十度線だったと言います。

当時は富山に都が在った訳で、神武天皇はより暖かな地を目指して都を遷される要が有ったのです。

其処で太陽の豊かに射す地を求めて南下する訳です。

そして辿り着いた地を、《日に向かって進んだ地》として《日向》と名付けたと言います。

当時は日本列島の中での最も太陽に近い土地だった《日向》の地が新しい都と成ったのですね。

此れを神話で天孫降臨の地は九州、高千穂の峰と其れと無く表した訳です。

此処に佛教徒と正しく歴史を遺そうとする神道派の軋轢が有った事の顕れが有る訳です。

天孫降臨の神話に潜むのは富山から日向の国への御遷都が有ったのですね。

然し、九州に居ては矢張り日本全土迄、目が届き難いと言う事から、気候変動が収まると共に、日本統率の為に再度遷都を試みたと言うのが、神武天皇の東征と言う神話に成ったのです。


本家、分家と言う話の意味が此処から推測出来ようと言うものです。

富山から日向に遷都した段階で、日本本土に残っていた天皇の同族が至る所に有ったと考えれば辻褄は合うのです。

元々同族だから、『刃に血塗らずして、言向け和(やわ)す』と。

何年も経て音信が途絶えたから、家宝に拠って本家か分家かをはっきりさせましょう…と言う訳だったのですね。


神話とは表面には出て来ない深い意味が隠されているものなのです…。