『故(かれ)ここに伊邪那岐命詔(の)りたまひしく、「愛(うつく)しき我(あ)が汝妹(なにも)の命(みこと)を、子の一つ木(け)に易(か)へつるかも。」と謂(の)りたまひて、すなはち御枕方(みまくらへ)に匍匐(はらば)ひ、御足方(みあしへ)に匍匐ひて哭(な)きし時、御涙(みなみだ)に成れる神は、香山(かぐやま)の畝尾(うねお)の木(こ)の本(もと)にまして、泣澤女神(なきさはめのかみ)と名づく。故(かれ)、その神避(かむさ)りし伊邪那美神は出雲國と伯伎(ははき)國との堺(さかい)の比婆(ひば)の山に葬りき。』

伊邪那岐命が泣き叫ばれました。腹這いになってお泣きになった。そのお泣きになった時の涙も神に成りました。
そして伊邪那美神は出雲国と伯耆国の境に有る比婆の山に葬られました。

『ここに伊邪那岐命、御佩(はか)せる十拳劔(とつかつるぎ)を抜きて、その子迦具土神(かぐつちのかみ)の頸(くび)を斬りたまひき。ここにその御刀(みはかし)の前(さき)に著(つ)ける血、湯津石村(ゆついはむら)に走(たばし)り就きて、成れる神の名は、石拆(いわさく)神。…中略…故、斬りたまひし刀(たち)の名は、天之尾羽張(あめのをはばり)と謂ひ、亦の名は伊都之尾羽張(いつのをはばり)と謂ふ。』

伊邪那岐命は怒って、剣を以てその迦具土神を叩き斬りました。その滴る血も神に成りました。全てが神に成るのです。泣かれた涙も、斬った血も全て皆神と成りました。

これが『神道の教え』なのです。
神は神を生む事が仕事…それは皆、命で出来ているからです。

命は命を生むのです。
我々人間も同じ命で出来ているのですから、実は我々もまた命を生むのです。
我々が何気無く、頑是なく思う思いも『思凝霊(しごれい)』と言う霊を次々と霊界に生んでいるのです。いったい毎日毎日、どれだけの霊を生んでいることか…。

邪な心で生んだ霊、正しき心で生んだ霊、全てが霊界で活動するのです。
正しき心で生んだ霊には皆、神が感応するのです。邪な心が生んだ霊には低級霊、邪霊が感応するのです。

“人を呪わば穴二つ”と諺にあるのは、自分が悲しみにふけり誰かを呪うと、その悲しみの呪いの霊を霊界に生み、悲しみを更に深め様と企む邪霊が感応して霊を生んだ本人に災いを働くと言う事を言っているのです。

頑是無い子供が何気無く想像した意念があのキューピーさんの様な、あのエンゼルの様な格好をした霊をたくさん生んだのです。

我々は誰もが“善き念”を持てば“善き霊”を生み、“悪しき念”を持てば“悪しき霊”を生んでいると言う事実を心しなければなりません。

霊を生むと言うことは、その生んだ霊が善き霊ならば神が感応し、悪しき霊を生んだら悪しき霊が感応する事を忘れてはなりません。

神は直接我々の肉体に感応することは先ず有り得ません。我々の創った思い…『思凝霊』に感応し、働きかけ、思凝霊を通してこの世の我々に働きかけている。この事を忘れないことです。

伊邪那岐命がお泣きになった…ここが良いところなのです。
親と言うものは、子供の為には理性を無視して情に生きます。だから、子供が育つのです。
伊邪那岐命が迷われた…勿論、迷いは迷った因果を生むけれど、この“迷われた情”が私達を救ってくれるのです。

どれだけ“おいた”をしようと、親だけが子供を信じてくれるのです。親だけが子供の犠牲にもなってくれるのです。…なかなか子供は分かってはくれませんけれど。

昔から“子を持って知る親の恩”と言います様に、子供の為ならば自分がどの様な犠牲になっても…と、親だけが子供と共に、喜び悲しみを同じゅうしてくれるのです。親なるが故に、子供の為に自分が苦しい災いを受けようとも、情に生きてくれるのです。

伊邪那岐命のこの情が罪を作ったけれど、この情の有る神様なるが故に、私達はおすがりすることが出来るのです。

この情の有る神様だから、私達の悩みも、私達の願いも聞いて下さる訳です。
単なる宇宙の真理とか、木で鼻を括った様に「お前たちは正しいことをせよ」と言う、或いは冷徹無比なるだけの神には私達はすがって行けないのです。その様な神は私達には無縁の神なのです。一緒に泣いて下さる神でなければ…。