縦に連なる関係は宿命の関係、拒否権も選択権も無い定められた関係です。

横に繋がる関係は拒否権も選択権もある、努力次第で開拓出来る関係です。

同じ血統上の親子は、宿命的、神道的に言えば、天命の中に生きる関係です。縦糸に当たる父が中心で母がその意味では補佐役に成り子供に父の志を伝えるのです。母が乳を子に飲ますのは、チチ(父)を、即ち父の志を含ませると言うことなのです。

但し、その為には当然、父が父の道を歩む事が前提条件です。そして母が母の道を歩む事で、子供は子供としての道を歩めるのです。

『道』とは『らしく生きる』と言うことです。我が家に照らして、父が父らしく、母が母らしく生きてこそ子供は子としての道を生きれるのです。

縦糸はピンとしていなければ、横糸は綾なせません。父は志有る生き方をしていなければ為らないのです。会社で言えば会社の存在目的を明確にして、命令系統がピンとしていなければ為らないと言うことです。

縦と横の関係が『直(ひたり)』と『曲(みぎり)』即ち『左』と『右』の関係ですから、『左』が宿命的、中心で、『右』は運命的な補佐的な関係と言うことから日本では左を重んじる様になったのです。上手(かみて)、上座(かみて)が左側に成るのはこの『直・曲』、『縦・横』の関係から来ているのです。これが日本的秩序…“ものの観方”でもある訳です。

『故(かれ)ここに反(かへ)り降りて、更にその天の御柱を先の如く往き廻りき。ここに伊邪那岐命、先に「あなにやし、えをとめを。」と言ひ、後に妹伊邪那美命、「あなにやし、えをとこを。」と言ひき。』

世の中は間違ったと思ったら御破算することです。自分が座っていながら自分の座っている座布団を外す事くらい難しい事はありません。一度立って、座布団を外すことです。この方がスピードがあり、生命の躍動も有ります。

御二人は結婚式を夫唱婦随と言う日本的秩序に従ってやり直しました。

『結婚』とは、“敬”と“愛”に因るものです。相手を敬い愛する心から始まるのです。

『あなにやし』とは“敬愛すべき”と言う意味です。

こうして御二人の神様は先ず淡路島をお生みになられ、次に伊豫(いよ)の二名島(ふたなしま)…四国のことです。更に隠岐島、筑紫(九州)、壱岐、対馬、佐渡とお生みになり、最後にこの本州に当たる大倭豊秋津島(おおやまととよあきつしま)をお生みになられました。全部で八つなので、日本の事を『大八島国』とも言うのです。
ここから更に続けて吉備児島(きびのこじま)、小豆島(あづきじま)…と言う具合にして日本の各島々をお生みになったのです。

こうして島々を生んでから、家屋の神、海の神、風の神、山の神、野の神、草木の神、船の神、穀物の神、そして火の神をお生みになったのです。

こうして伊邪那岐命と伊邪那美命は修理固成をされた訳ですが、大事なことは先ず国を生み終えた後に神々をお生みになったと言う順序です。

日本語では例えば須佐之男大神と言うかと思えば須佐之男命とも言いますね。
大神様・神様・命様・尊様とも使い分けてますが、これは全て同じ…“命で出来ている”と言う言葉なのです。

『命』で出来ている…『命』に目覚めたものを日本語では『神』と言うのです。『神』とは『命』である…と言っているのです。 命を百パーセント使いこなすものが日本で言う神ですから、『命』とも『神』とも書くのです。

同じ命の『命(神)』の中でも“敬いの表現”をする時に、敬称の上に於いて『尊』と書きます。実は『神』と言う言葉そのものが『生命』と言う意味の言葉でもあるのです。

生命で出来ているから全ての神は同じ一つの命ですが、“人間的上下の区分の敬称”として、多くの神々の中でも大事な 大黒柱的なお役を召される方には尊(そん)の『尊(みこと)』を書く訳です。

『大神』と申し上げます方は神界の一定の高さに居られる方…つまり、神界の上層部の神々を『大神』と申し上げるのです。神格の高さに因る名称で神様なら誰でも大神様と言う訳では有りません。『大御神』と申し上げるのは天照大御神様だけなんです。

伊邪那岐命と伊邪那美命が協力し合って火の神
をお生みになりましたが、この時に伊邪那美命は火傷をされてお亡くなりになったのです。