
霊学を究めると共に上代史もまた究められた我が師に依る『古事記』解説です。
師曰く
東洋の教えと言うのは序論が即本論であり結論なのです。
塚原卜伝の卜伝流の『一の太刀』と言うのが有りますが、これを皆「いちの太刀」と読むから、二の太刀、三の太刀が有るように思ってしまうのです。実は「ひとつの太刀」なのです。そしてこれが卜伝流武道の極意でした。防御は即攻撃であり攻撃は即防御である。
実はこの様に『否定と肯定が一致する』世界、これが『東洋の教え』です。これが『空』と言う思想です。
『古事記』に於いても実は最初の一文で本当は全てを語り尽くしていると観て間違いないのです。
『天地(あめつち)初めて發(ひら)けし時、高天(たかま)の原に成りませる神の名は天之御中主神』
この一行だけでも万言の言葉を費やさねば為らぬ哲理を含んでいます。『高天の原』と言うのは生命界のことです。命で出来ている生命界を高天の原と言うのです。
『成りませる』と言うことは、『造る』でも『生む』でもありません。
『造る』と言うことは、『造るものと造られるもの』が有ることに成ります。造ったものが主人で造られたものが下僕(しもべ)であり、造られたものは造ったものの意志に無条件に従わなければならないと言う主従関係をそこに生じる訳です。
キリスト教やマホメット教は天地の造り主のエホバの神やアッラーの神の意志が、人間に執っての『真理の基準・正義の基準・善悪の基準』と成るのです。これを『創造観』…造り主(創り主)の思想と言い、其処には造ったものと造られたものと言う二元対立の関係が出てきます。
『生む』と言うことには二つの事が言えます。
ひとつは人間の子は皆人間だと言うこと。人の子は人の子なのです。猫の子は猫の子、猫の子が犬に成ったり人に成ったりはしません。神から生まれたら神の子であり、罪の子は生まれません。これは『本質機能の上に於いて一貫している』と言うことです。
もうひとつは、親は子供の身体は生んでも心は生めません。つまり親子は本質機能の上では同じですが、人格は分離していると言うことです。
人は神の子である限り、修行次第では神の子は神に成ると言う可能性を持っていると言う事。
親子と言うものはその可能性に於いては同格であっても人格は別だと言うこと…これが『生む』と言うことです。
つまり、人間の子は人間の子で有ると共に皆神の子ですから、罪の子は一人もいないと言うことです。
神道は『光一元の教え』であって、罪そのものは認めてはいないのです。
『成りませる』と言うことは、ひとつの命が手と成り足と成って一人の人間に成る様に、ひとつの命から次の命が生まれたのではなく、『一つの命が変化』したのが『成りませる』と言うことです。
『造りませる』でも『生みませる』でもないのです。『成りませる』と言うのは『一つの命が変化してこの宇宙が出来た』と言っているのです。
この『生命界に成った神』…『天之』と言うのは『宇宙の』と言うことです。
『御中主神』の『中』とは真ん中の『中』ではありません。中国語で言う『中(チュン)』です。意味は『そのもの』あるいは『即』…すなわちと言うことです。
『宇宙』即ち『天之御中主神』と言っているのです。それを宇宙の真ん中に居る神と解釈するところに間違いが生じる訳です。
しかし実は『真ん中』でもあるのです。
『チュン』は『宇宙そのもの』で、その宇宙とは無限である限り、端(はし)が無い訳ですから、実は全て真ん中と成りますね。『端』が有るから自ずと真ん中が限定される訳で、端が無ければ全てが真ん中に成ります。
真ん中を上げれば全体が上がります。『御中主』と言うのは、生きていて、躍動していて…真ん中と言うことは宇宙をぶら下げることが出来る。況してや地球をぶら下げるなど何でもないことです。
天之御中主…宇宙そのものとは、つまり私達のことを言っているのです。
私も同じ命で出来ている。その命は無限の叡智と無限のエネルギーを持っている。
私は命そのものなのです。個性的存在であって、同時に生命の全てをまどらかに備えている。つまり私は『生命の統和体』と言うことです。だから私をぶら下げたら宇宙がぶら下がってくるのです。
御中主とは宇宙の全体であり、宇宙を支える中心つまり宇宙の統和の中心と言うことです。だから私をぶら下げたら宇宙がぶら下がる。
もう一度申します。
私は命で出来ている。その御中主と言うのは宇宙の全体であり中心でもあるから宇宙をぶら下げられる…と言うことは、宇宙を自由に操り、自由に左右することが出来る。宇宙の全てが私に映ると言うことです。これが『悟り』なのです。
己を極めると言うことは、実は己が宇宙の統和であること、宇宙の中心であると言うことを極めることが悟りなのです。
生命あるものは、全て無限の叡智と無限のエネルギーを持っているのです。それを躍動せしめるには、己が空しく成れるならば、一念無想に因って雑念を去り得ることが出来れば生命力が躍動するのです。
天之御中主神が私達以外に有ると思ってはならないのです。もし私達以外に有るのなら、宇宙の全体では無いことに成ります。
ですから、私達全てが天之御中主神なのです。
宇宙は一元生命体なのです。
神とはこの命の持つ無限の叡智と無限のエネルギーを100%使いこなし得るもの…それが神であり、神格は其処に生じるのです。
日本語で言う神と人の違いは主(あるじ)と下僕ではありません。命を100%使いこなし得るか否かの違いなのです。
たとえ一滴の水の中にも命そのものの持っている可能性、機能性が備わっています。
我々もその偉大なる命で出来ていることに目覚めることです。
例えば『須佐之男大神』と言うかと思えば『須佐之男命』とも言います。これは『命で出来ている』と言うことです。
『命で出来ている。その命に目覚めたもの』を日本では神と言うのです。命に目覚め、命を使いこなし得るものが神です。
命を使いこなし得なければ、宝の持ち腐れ
無くても同じだと言うことに成ります。
我々もまた同じ命で出来ている…宇宙の全てが己に映り、宇宙の全てに己が影響を与え得る、己の吐く一息一息が全て宇宙にこだまする偉大な命で我々も出来ていることに目覚めることです。
神の世界は『これ一か、これ多か』『多にして一、一にして多か』…多いと観れば多く、少ないと観れば一つの姿なのです。神々が幾柱其処に御在しましても『一柱の天之御中主神』に過ぎないことに変わりありません。
山も川も人も神も生命だと言うことに於いては変わりはないのです。
つまり、神は一柱に過ぎないと言えば一柱ですが、その一柱の神が因縁の相違に因って、いろいろな働きを持てる神々を其処に生じたのです。
因縁に於いて独立した神格を持つ多くの神を生じたのです。と言うことは、自ずから神々の世界にも秩序と言うものが必要と成ります。
生命の世界は『生命の繋がりの法則』に因って動いています。即ち『生命の原理の現れた世界』が神々の世界だと言うことです。
大生命である天之御中主神が因果に因って多神を生じ、多神は各々独立した因果を其処に果たしながら『天津身光日之大御神』を秩序の中心として大御神を仰ぎながら統一ある多神の形態をとっておられるのです。
この神々の法則さながらの地上の社会を生じているのがこの日本の国柄即ち国体であると古事記は語っているのです。
日本の国柄は、天皇を上に戴き、人々が各々の分野に活躍すると言う『生命の法則の繋がり』の現れた世界なのです。
『序論が結論』と言う意味がこれでお解り頂けたでしょうか。