『宗教』と言う言葉の意味はキリスト教に観る様な『西洋の宗教』と神道、仏教と言う『東洋の宗教』では意味が全く違います。

西洋の宗教たはラテン語のレリガーレから出ています。レリジョン。意味は『繋ぐ』と言う事。天地の創り主と仰がれるエホバの神と人とを繋ぐのが宗教(レリジョン)です。

ところが東洋で言う『宗教』と言う言葉は、隋(ずい)の時代の法経が最初に使った言葉で、宗教の『宗』は『尊貴無上』…私に執ってこれ以上無い貴いもの、即ち『私自身』の事。『教』は『生活規範』…生活の道しるべです。

私自身の命が最も私には貴いのです。私の魂と言っても良い。その私自身がどう生きるか。つまり私自身を極める事です。

今此処に居る私は何処からこの世に来て、この世で何をして、死んだ後の私はどうなる❔死んだ後は何処に行く❓️

己を極めると言うことは、この疑問の解決を諮ることです。これを『宗教』と言いました。

己は何処より来たりて、この世に何をして、何処へ去り行くか…この己を極め得た人を仏教では仏と言い、覚者と言ったのです。神道では己を極め、宇宙の法則を使い熟す方を神と言ったのです。

『己は何処より来たか』とは『主護霊から』でした。しかしこの真実に目覚めるのは一般論で言えば、人死して幽界七層を越え霊界に行き、霊界での修行を経て『光焔界』迄上がって初めて『己を知る』事が出来ると言います。

光焔界に至り静かに座禅を組み精神統一の中で己を見詰めた時に初めて己の主護霊を知ることになると言います。

精神統一とは一刹那を感得するまで精神を統一する事です。『一刹那』とは今の時間に置き換えれば『六万七千五百分の一秒』を感得すると言う事です。御釈迦様はこの感覚で宇宙を観、物質の彼方を観たのです。次元を越えた世界に霊界を観詰め神や仏の姿を捉えたのでした。

しかし、御釈迦様は悟らない一般大衆には霊界は説きませんでしたが…

精神統一に因り主護霊を知り、主護霊が自分に託した願いを知り、地上に生きていた時分はその願いが分からず、結果親である主護霊の願いを果たせなかった事を知り、自分が果たせなかった親の願いをなんとか果たそうとして、今度は自らの分霊を地上に末魂として、我が生まれ変わりに願いの成就を託そうと言う事になるのです。

末魂だった自分が今度は主護霊と成って行くのです。これが本来の主護霊なのです。

己を極めるとは、実は己の主護霊が己に何を要求したかを、何を果たさせようとしたかを知る事でした。

こうして分霊を生むとは、主護霊と成るべく『意念』を派遣する事です。

この意念、観念と言う『念』もまた生きたエネルギーの一部なのです。宇宙そのものが生命体ですから、生命(いのち)は無限の叡智と無限のエネルギーを持っているのです。

宇宙の命はひとつです。神道ではこの宇宙と成ったひとつの命を『天之御中主神』と申し上げるのです。