神社の成り立ちとしては、やはり倭比賣命が皇太神宮を何処へ安置するかとあちらこちらと御歩き召された事績が有名と思います。

最後には皇太神宮 として伊勢へ安置召されたわけですが、伊勢市は嘗て宇治山田と言いました。

この『宇治』の『宇』とは『宇宙の時』と言う事でした。つまり『宇宙の時を治める』と言う事で『宇治』に成ったのです。

倭比賣命は伊勢の皇太神宮へ辿り着くまで『八咫の鏡』を持ってあちらこちらと巡り『八咫の鏡』を安置召されながら最も相応しい処を求められました。此の安置召された処を『御駐輦(ごちゅうれん)』と言い、その処を全て『元伊勢』と言ったのです。

実はその真相は、倭比賣之大神が元伊勢毎に神の力を降し、元伊勢元伊勢と言う横の繋がりを其処に持つ事に因って大きな結界を作り神の力のバリケードを造ったのです。これを『奇路』と言います。

神が天界に帰って仕舞うと奇路のバリケードも力を失うと言います。

神社から神が去る事が有るのでしょうか⁉️

宇宙はひとつの生命で出来ていると言いました。宇宙は生命で出来ている。人も生命で出来ている。神も同じ生命で出来ているのです。生命とは躍動の世界の中に有るのです。

生命力の躍動する世界が神の躍動する世界です。躍動の無い所には神は動かないのです。

そこで昔は神の声を聞く事の出来る託神姫である神子(巫女)が大社、国社と言ったこれと言う神社には居て神の願いを聞いたのです。そして、その願いに人が応じました。

だから社頭に於いて神が躍動召されたのです。

しかし、神が人に訴えて来て神の生命力の躍動を果たそうとしても神伝え人が居らず神の意志を十分に聞いてくれる人がいなくなれば、神は動きようが無くなるのです。

この状態を上宮太子は十七条の神職憲法で『神が眠りにつく』と述べられておられます。

神は現実に於いては三次元の肉体を持っていませんから、居眠りとか昼寝をするとかはないのですが、働いていない神は寝ているに等しいと言う事です。

躍動しない神は寝ているに等しいと言う事です。

やがて長いこと神が寝ている状態が続くと今度は神がその神社に居る意義も必要も無くなるのです。

神社にいつも神が居るわけでは無いのです。神社と言うものには必ずしも神が居られるわけでは無いのです。

呼び出しを受けるからシャーッとやって来るのですが、本来神は神仙界か神界に居られ、地上に出てくるのは神仙界の神か神仙界以下の霊界上層部の神仙界のお使いなのです。神界の高い神様は神仙界までしか降りては来ないのです。

いずれにしても呼び出さない限りはその神々も神々のお使いの高級霊も神仙界や霊界上層部へと帰って仕舞うと言う事です。即ち下界と縁が切れると言うことになるのです。

神主とは巫女に執っての審神者であり、神々が神社に居られるかを常に問い掛け、神の躍動を乞う重要な役目を担う方なのです。

神主が己が聖職を蔑ろにすれば、神はその神社から去って行くと言う事です。神あっての人。人あっての神。これが神々と我々人間との関係なのです。

そして、神の去って仕舞われた神社も有ると言う事を心しなくてはなりません。