小学校5年生のことでした。

 

ぼくの家から自転車で15分くらいのところに

川が流れていました。

 

川幅は10メートルもない小さな川。

以前は、魚が住めるのか、

というほど汚れていて、

利用価値はあるのか、と思っていましたが、

 

 

川の東西を用水路が流れ、

用水路より低地を流れているために

周囲の田んぼの排水路がわりになっていると知りびっくりしました。

 

 

ある日、地図を見ていたら

その川が突如、地図上から消えていました。

 

父親に聞いたらその辺から始まってるんだろう、

と適当な答え。

 

川の始まりがこんな近くにあるなんて。

山の奥に行かないとお目にかかれないものだと思っていたので

もうたまらない。

 

 

 

川の始まりをみたい、

始まりを見てみたい、

とむくむく思いが膨らむのでした。

 

とうとうある日、

自転車で走り出しました。

 

結局、途中に鉄道の車両基地があり

川はその下に消えていったのでした。

 

当日のぼくは断念せざるを得ませんでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その話の後日談。

 

 

30年くらいだったある日。

 

渋滞を避けるためにとおりかかった場所に

こんな立て札を見たのです。

 

 

~川水源地。

 

 

目を疑いました。

確かめずにはいられなかったのですが、

急いでいたのでそのまま通りすぎました。

 

後日、そこに出向きました。

行くと、わずかばかりの沸き水がでていました

 

そばに看板があり

「この地下~メートルから水がわいている」

と書いてありました。

 

 

30年越しに希望が叶ったのと同時に

 

「問い」というのはいつまでも私たちの中にあり

「答えは」きっかけ一つでいつでも目の前に現れてくれるものだと

痛感しました。

 

 

 

 

もしかすると、

「答え合わせ」

を忘れてしまっているのは、

ぼくらの方で

 

 

問いと答えから生まれる

「体験」というのは、

答え合わせの時を待っているような気がしました。