その坂道を上ると綺麗な景色が見えることを知っている。だが、俺は頂上まで上らない。それは、坂の途中から見る景色の方が好きだからだ。頂上、中腹、麓、それぞれに美しい景色がある。その場所でしか見えない景色、そこでしか感じられない思いがある…。
さて、ある朝のことである。着替えを済ませて詰所へ行くと、新人清掃員の妹子さんがペットボトルとにらめっこをしていた。
「おっ、おはよう、妹子さん。なっ、何を見ているの?」
「おっ、おはようございます。浮沈レーズンです」
「あぁ、俺も子供の頃にやったことあるよ。炭酸にレーズンを入れると、二酸化炭素の付着で浮き沈みを繰り返すよね」
「そっ、そういう原理なのですね。仕組みは知りませんでした」
「…で、その浮き沈みを見て、妹子さんは何を思っていたの?」
「わっ、私の人生はなかなか浮いてこないなって…」
「そんなことないでしょ…。妹子さんが頑張っている姿から、俺も婆さんたちも元気をもらっているよ」
「あっ、ありがとうございます。私…、清掃氏さんに手紙を書いてきたんです。帰りに渡します」
「てっ、手紙?! 分かったよ、楽しみにしているよ」
帰り際、俺は彼女から手紙を受け取った。
「きっ、帰宅してから読んで下さいね」
「うん、分かったよ」
「じゃっ、じゃあまた明日…」
「うん、また明日ね。気を付けて帰ってね。お疲れ様でした」
すぐに読みたかった。だが、読まなくてよかった。その場で封を開けていたら、彼女の一言一句を反芻(はんすう)することはできなかっただろう。俺は手紙を読み、久しぶりに胸が熱くなった。決して美しい文章ではなかったし、綺麗な言葉が並んでいたわけでもない。だが、心の深い場所で言葉の節々が木霊(こだま)した。彼女の許しを得たので、ここにそれを紹介したい。
突然のお手紙、ごめんなさい。
いつも優しくしてくれてありがとうございます。
私は小学生の時からずっと不登校でした。
学校へ行かなかった理由は、いじめです。
汚いと言われたり、臭いとそっぽを向かれたり、ばい菌扱いをされたり、私はいつも一人でした。
最初は仲の良かった友達も、私と一緒にいるとからかわれるので、少しずつ離れていきました。
だから、私は一人を選びました。
私のことで、友達に辛い思いをさせてしまうのが悲しかったからです。
この仕事を選んだのも、一人が好きだからです。
駅の隅っこで、誰とも話さずに掃除をしていたいと思っていました。
でも、ある日、清掃氏さんから言われて気が付きました。
覚えていないと思いますが、「本当に一人が好きならば、駅の清掃は選ばないんじゃないかな」、清掃氏さんはこう言いました。
確かにそうですよね。
本当に一人が好きなら、駅のようにたくさんの人がいる場所は避けますよね。
私は心のどこかで、人を求めていたのかもしれません。
今はまだ自分のことで精一杯です。
でも、少しずつ景色が変わってきています。前よりも、ご飯が美味しく食べられるようになりました。
誰かを思ったり、誰かの為に生きたり、そんな余裕はまだどこにもありません。
でも、人を好きになるって、すごく幸せなことですね。
いつもどこからか声が聞こえてくる気がします。
頑張れ、頑張れよ、頑張っているね。
今まで私は、頑張れが大嫌いでした。
頑張っているのにどうして頑張れって言われるのかな、どうして私が頑張っているのが伝わらないのかな、ずっとそう思っていました。
でも、それは私の心が曲がっていたからで、今は頑張れを素直に受け止められます。
頑張れって、結果や努力不足を責める言葉じゃなくて、努力している人を応援する言葉なんですね。
私はいつも清掃氏さんの心のこもった頑張れに励まされています。
自分や他人のダメな部分ばかりを探したり、楽しそうな人を妬んだり、今までのそんな私に伝えたいです。
たまには人を好きになってみたらどうですかって…。
※私の本名の部分は「清掃氏」に置き換えてあります。画像を拡大すると見えるかもしれませんが…。
翌朝、彼女はまた浮沈レーズンを見ていた。
「妹子さん、おはよう!」
「おっ、おはようございます。昨日は変なお手紙を渡してしまってすみませんでした」
「いや、変なんかじゃないよ。感動したよ。俺なんかを慕ってくれてありがとね。これからも『頑張れ』って言わせてもらうよ」
「あっ、ありがとうござます! 嬉しいです」
「ほらっ、レーズンも浮いてきたよ」
「でも、すぐに沈みますよ」
「いいんだよ、沈んだって…。いつもいつも浮いていたらさ、沈んだ時の気持ちが理解できなくなって、励まし方や応援の仕方が分からなくなってしまうんじゃないかな。浮き上がるというか…、這い上がるというか…、良い明日にしよう、今を変えよう、そんなふうに自分自身に努力をした経験がなければ、それは上から目線の『頑張れ』になってしまうよね。その場所にいたことがあるからこそ、分かる気持ちとか感じる思いがあると思うんだ。俺は…、同じ目線で『頑張れ』って言いたいな」
「せっ、清掃氏さん…」
「よしっ、今日もお互いに頑張ろう! 妹子さん、fight!」

