「人間のやっていること」、「人間がやってきたこと」について、

僕なりの経験、体験、見たこと、聞いたことをベースに

書いてみている。

 

こころの平和を希求していることもあり、

このブログでは、あまり強い表現は使わないようにしている。

 

ただ人は、表づらの穏やかさとは裏腹に、

強烈で根深い感情・願望を

こころの奥底に隠していることがあり。

 

隠されたものから目を背けていても、

それは消えることはなく、温存されているだけなので、

なにかのはずみで、それが表面化したりすることもあり。

 

「人間のやっていること」、「人間がやってきたこと」

を書いていくうえで、

そういう事柄にも多少は触れておくほうが良いようにも思え。

 

明らかに見るには、明らかに知るには、

そこを避けるわけにはいかないから。

 

僕のブログで、強い表現が出てきたとしたら、

そんな思いから書いたものと思っていてください。

 

 

・・・

 

 

このブログでは、

「悟り」、英語でいえば「Enlightment」という言葉を

たまに出したりしていて。

 

ただ、それについて、

あーだこーだということは書かないことにしている。

 

それが何を指しているか、人によってそれぞれ違っているのに、

「わたしは悟った」「わたしは悟っていない」

「あの人は悟った」「あの人は悟っていない」

という会話には、あまり意味が無く、

..というより、むしろ有害なようにも思えるので。

 

 

ただ僕自身、それが何なのか良く知らないままに、

それに対して、何か期待のようなものを抱いていた。

 

 

その言葉を耳にし始めたのは、多分中高生くらいだと思うが、

あの頃から「ムー」という、異色のオカルト雑誌があって。

 

麻原なにがし、という人が、

自分は悟ったとか、空中浮揚が出来たとか、言っていて。

 

何も分かっていない子供の頃なので、その話を読んで、

「悟ると、特殊能力が開花する」

という、不適切な学習をしたこともあったけど...。(苦笑)

 

 

「悟り」の定義に首を突っ込むつもりはないが、

悟った人は落ち着いていて、動揺しない、

というイメージは持っていた。

 

僕は、動揺を感じたくなかった。

僕は、不安や怖れを感じたくなかった。

それは僕にとって、不快な感情だった。

嫌だった。

 

悟りに対して、憧れのような気持ちがあったように思うが、

それは、動揺したくなかったから、なのだろう。

 

 

気が小さいチキンハートなので、

小さなことで動揺ばかりしていたが。

 

ここまで生きてみると、どうもこの人生は、

悟ること、動揺しないことが目的だったわけではなく。

 

というよりも、むしろ、

動揺するために生きているように思えてきた。

 

 

僕が動揺するのは、やむを得ないことだった。
 

肉体的に健康で苦痛の感覚を持たずに生きることは望ましく、

逆に、肉体的な病気、苦痛、死は、望まれないものとして恐れた。

 

そのように意味づけ、価値づけして、

善悪を決めたのは、僕だった。

 

そう決めたので、望まれない事柄が近づくと、

僕は怖れ、動揺した。

 

僕は、自分が意味づけした事柄に対して、動揺した。

 

 

・・・

 

 

夜になって、少し涼んでは来たけれど、

今日も暑い日だった。

 

外では、うるさいくらいに虫たちが鳴いている。

 

あの虫たちは、なぜ生まれてきたのか?

 

そんなこと、僕は知らないのだけれど、

この騒がしいくらいの虫の音が、

今の僕にはありがたい。