これは、僕も結構長い間、
分かっていなかったことなのだけれど。
僕が見ている「ソレ」、
僕が知覚・認識している「ソレ」には、
そもそも意味は無い、ということ。
最近の僕のブログでは、
「人間がやっていること」を書いているつもりなのだけれど、
これもそのひとつで、
あらゆる「ソレ」そのものには意味はなくて、
「ソレ」に意味を与えているのは、
わたし、自分、なのです。
・・・
説明すると...。
眼に入ったもの、何でもいいのだけれど。
例えば、椅子でもいいし、座布団でもいいし、
洗面器でも、ペットでも、子供でも、
何でもいいのですが。
わたしがそれを知覚したとします。
それ=「椅子」であれば、
「それは椅子だ」と。
そして、その椅子の属性を瞬時に捉えて、
素材や仕立てが良ければ、高級で高価な椅子だとか、
サイズが小さければ、子供用の椅子だから、自分は座れないとか、
どこか壊れていたら、廃却しようとか。
様々に、意味づけ、価値づけを行います。
しかし、それは、
わたしが勝手にそれに対して
意味づけ、価値づけしているだけです。
それそのものは、
意味も、価値も持ちません。
わたしは、「何か」を見て。
その見え姿に対して、
わたしの記憶・経験・知識を照らし合わせて、
それを「椅子」と判断し、決めつけ、
そしてさらに、意味づけ、価値づけを行います。
それそのものは、
単にそこにあるだけで、
何の意味もなくて。
単に、わたしたちが勝手に意味づけ、価値づけしているだけ。
わたしたちが知覚するもの、
なんでもそうなんです。
リンリンと鳴く虫の音も。
夜空高くに輝いている木星も。
喜びや、悲しみ、怒り、心地いい/悪いといった
さまざまな感情の感覚も。
それに意味・価値を与えたのは、わたしなのです。
・・・
人間がそうやっていることを、
良いとも悪いともいうつもりはありません。
普段の生活において、
それを椅子と呼ぶことは一般的であって。
そして、その椅子に対して、意味づけ、価値づけすることも、
悪いことではなく。
むしろ人間として、それが出来なければ、
何らかの欠陥がある人間と見なされるでしょう。
ただ、人間がやっていることは、
そういうことなのです。
良い悪いというものは、
それそのものが持っているわけでは無くて。
わたしが勝手にそれに対して、
良い/悪いとか、好き/嫌いとか、言っているだけ、
ということです。
ちなみに、そのことはACIMに教えてもらったのですが、
ACIMのワークブックの初っ端に出てくるテーマなのに、
全然分かんなかったです。
自分でやっていることが分かっていない。
私たちがいかにそれを無意識にやっているか、
ということだと思います。