奇跡講座の教えについて

僕の見た目(認識)では



自分で捏造しておきながら無視している

闇とか罪悪とか呼ばれているものを自覚し

それが虚偽であるが故に赦していく

という部分に重点を置いていることから



救い、救済という部分についての表現は

少し控えめなように見えるのですが...





でも、僕の感覚

それは人間感覚というところからなのでしょうが



やはり、救済は訪れた、とか

救いがもたらされた、とか



そういう表現をしたくなるのです





・・・





それぞれの人にとって

救い、とか、救済という言葉で表現されるものは

それぞれ違うのでしょうし





その救い、救済ということに対して

自分にあてはめて

どのような状態・認識であるのか

それも人それぞれなのだろうと思います





救いという概念自体が希薄な人もいれば


自分には救いなど要らない、自分で何とかする
と思っている人もいるだろうし


救済が訪れたと思って悦んでいる人もいるだろうし


救いがあったり、無かったり
と認識している人もいるだろうし


救いが欲しいのに、自分にはまだ救いが訪れていない
と思っている人もいるだろうし


救済が訪れたかどうか分からない
という表現をする人もいるのだろう、と思います





救済が訪れたことを認めるのは

少々難しいことなのかもしれません





救済が訪れた、と言うことは



私は満たされた

私は満足した

私はそれを受け入れた

私に起こったことは全て正しかった



ということに等しいように思え



不満は無い

私は満たされているので、外に求めるものは無い



と、宣言するようなものだから








救済は訪れた、と書いたのですけど

それが何だったのか、僕には分からない

というのが、ある意味正直な表現です





僕にとって生きることは

ただ辛さ、痛さ、苦しさの感覚が強くて

ここから逃れたい

ということばかり思ってきて





何か、偶然のふりをして訪れて


何が起こっているのか分からなくて
#何が起こったのか未だに理解していない...




辛さの感覚から、色々ともがいていたりはしたけれど
#未だにもがいてますが...




コロコロと転がるおにぎりと

目の前にぶら下がるニンジンを

ただ追いかけていただけだったのだけど




そのうち

起きることを信頼しても良さそうだ

ということに気づき



僕的な表現では、全受容と言っていたけど





色々しているうちに

最後のダメ押しでやってきたのが

Amazonの段ボール箱に入って

クロネコのおじさんが届けてくれた蒼い本





  罪悪は無かった


  世界に意味あることは何も起こっていなかった


  意味あるように思えていたことは
  僕が捏造したものだった


  世界に罪悪は無く
  静かで平安なままだった






人間感覚で生きる僕にとっては

動揺を感じることは

当然未だに色々とあって




様々な事柄・表象に

意味づけ、価値づけ、判断を行って

その見方で見ることに

僕は慣れきってしまっているので



何も起こってはいないのに

動揺という形で反射的に反応する



その感覚はしばらくはやむを得ないだろう

と思っていて





でも、それでもやはり

救済は訪れた

と表現せざるを得なくて




それは来たのだから




来ていないというのは

僕にとって嘘になってしまうから




・・・




僕にとっての救済は

いかにも救世主~

みたいなシルエットを纏ってはこなくて





それはとても遠回しに


何も言わず、そっと差し出すかのように


様々な出来事と


インターネットと


クロネコのおじさんを通して訪れて





人間感覚で辛さ、痛さを感じたことは


やはり多かったのですが





その伝え方を一言で纏めるなら





それはとても優しかった





..そんな表現になります









文字に起こすと

かなり人間感覚の文章になってしまい..




それは今の僕には仕方がない

と思っていて





本当は何も起こっていないのでしょうけど..





でも、人間感覚の僕にとっては


それをそのように見せてくれたことについて


やはり感謝せずにはいられないのです


導いてくれたこと、本当にありがとう






思いつくままに書いて


文章の流れも何もあったものじゃないのですが


これでUPします...m(_ _)m