小説、「ミゲルの物語」の続きを書くために、ニコラさんの生きた13
世紀には世界史でどんなことがあったのか、十字軍を中心にまとめ
てみました。
1096-1099 第1回十字軍
1095年に教皇ウルバヌス2世がキリスト教徒に対して軍事行動を
呼びかける。1096年からエルサレム遠征の軍が集まり、1099年
にエルサレム征服、エルサレム王国などいくつかの十字軍国家
が作られる。
1147-1148 第2回十字軍
しばらくの間は十字軍国家のキリスト教徒と他のイスラム教徒が
共存していたが、イスラム教徒が勢力を取り戻したことで教皇
エウゲニウス3世の呼びかけで結成された。フランス王ルイ7世
や神聖ローマ皇帝コンラート3世など多くの従軍者が集まったが
全体として統制がとれずに小アジアなどでムスリム軍に敗北した。
1189-1192 第3回十字軍
1187年にアイユーブ朝はジハードを宣言。アイユーブ朝の始祖
サラディンが7月のヒッティーンの戦いで現地十字軍国家の主力
部隊を壊滅させ、10月にはおよそ90年ぶりにエルサレムがイス
ラム側に占領、奪還された。この状況を受け、教皇グレゴリウス
8世が十字軍を呼びかけ、イングランドのリチャード1世、フランス
王フィリップ2世、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世が参加した。フリ
ードリヒ1世はキリキアで川を渡ろうとして落馬して鎧のため溺死
した。イングランドとフランスの十字軍がアッコンを奪還し、リチャ
ド1世がサラディンと休戦協定を結び、エルサレム巡礼の自由は
保証されたが、以後十字軍国家は守勢に回ることになった。
1202-1204 第4回十字軍
教皇インノケンティウス3世の呼びかけにより実施。エルサレム
ではなくイスラムの本拠地エジプト攻略を目指す。しかし渡航費
が足りなくてハンガリーのザラを攻撃したことで教皇から破門さ
れる。その後東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスを征服
し、市民の虐殺や略奪が行われた。フランドル伯ボードゥアンが
皇帝になりラテン帝国を建国。教皇はやむを得ずこれを認める。
1218-1221 第5回十字軍
教皇ホノリウス3世の呼びかけに応じたハンガリー王アンドラー
シュ2世、オーストリア公レオポルト6世らがエルサレム王国の
国王ジャン・ド・ブリエンヌらとアッコンで合流しアンドラーシュ
2世は帰国したものの、レオポルトやジャンらはイスラムの本拠
であるエジプトを目指した。1218年にエジプトの海港ダミエッタ
を包囲し、1219年に攻略。ここでアイユーブ朝側は旧エルサレム
王国領の返還を申し出たのだが、あくまでも戦闘を続けエジプト
の首都カイロを落とそうとする枢機卿ペラギウスとレオポルトや
ジャンが対立、レオポルトやジャンは帰国。1221年には神聖
ローマ皇帝のフリードリヒ2世からの援軍を受け攻勢に出たが
エジプト軍を打ち破ることができず大敗し、ペラギウスら残る全軍
が捕虜となって十字軍は失敗に終わった。
1228-1229 第6回十字軍
グレゴリウス9世は十字軍実施を条件に戴冠した神聖ローマ皇帝
フリードリヒ2世に対して度々遠征を催促していたが、実施されない
ためフリードリヒを破門した。1228年に破門されたままフリードリヒ
は遠征を開始。エジプト・アイユーブ朝のスルタンアル・カーミルは
内乱に悩まされていて、戦闘を交えることなく1229年に平和条約を
締結。フリードリヒはエルサレムの統治権を手に入れた。教皇グレ
ゴリウス9世は破門されたままの皇帝がエルサレム王になったこと
を口実にフリードリヒに対する十字軍を実施したが、皇帝軍に撃退
されて1230年にフリードリヒの破門を解いた。
1248-1249 第7回十字軍
アル・カーミルの死後、1244年にエルサレムがイスラム側に攻撃
されて陥落、キリスト教徒2000人余りが殺された。これを受け、
1248年にフランス王ルイ9世が十字軍を起こす。ルイは首都カイロ
を目指す途中の1250年にマンスーラの戦いにおいてアイユーブ朝
のサーリフに敗北して捕虜となった。交渉途中でサーリフは死亡し
新たに成立したマムルーク朝に莫大な賠償金を払って釈放された。
1270年 第8回十字軍
フランス王ルイ9世が再度出兵。当時ハフス朝の支配下にあった
北アフリカのチュニスを目指すが途上で死去。
1271-1272 第9回十字軍
第8回からの一連の流れにあたるため、独立した十字軍とみなさな
い場合もある。マムルーク朝第5代スルタンとなったバイバルスの
下でイスラム側は攻勢を強め、1268年にアンティオキア公国を完全
に滅亡させ、住民のすべてを殺害、または奴隷にした。これがキリ
スト教圏を刺激し、1271年にイングランド王太子エドワードとルイ9世
の弟シャルル・ダンジューがアッコンに向かったが、勢力を収めず
に撤退した。1289年にはトリポリ伯領が滅亡し、1291年にはエルサ
レム王国の首都アッコンが陥落して残余の都市も掃討され、ここに
十字軍国家は全滅した。
十字軍の歴史にニコラさんの生涯をあてはめてみると、まずは
第4回の十字軍戦士の1人がニコラさんのお父さんなので、悪名
高いこの十字軍がなければニコラさんは生まれなかったことにな
ります。
十字軍の歴史を見ると、最初は聖地エルサレムを取り戻すという
目的で行われましたが、途中からイスラム教徒の本拠地エジプト
を攻撃するようになっています。聖地を取り戻すというよりもキリス
ト教徒対イスラム教徒の戦いになっているようです。そして聖地の
問題だけでなく、あくまでもイスラム教徒の拠点カイロを攻撃しよう
とした枢機卿がいたり、フリードリヒ2世がせっかく和平条約を結ぶ
のに成功したのに、破門した時にエルサレム王になったのが気に
いらないからと攻撃したり、宗教的理由は建前で、本当は権威
を高めたり歴史に名を残したいためにエルサレム、あるいはエジ
プトを攻撃して虐殺や略奪をしたのかと疑いたくもなります。
ニコラさんの人生は、十字軍の時代の勢力争いと同じ時代です。
修道士なので直接関わることがなくても、まさに十字軍を中心とし
た戦いの時代に生きたことになります。そして彼がシチリアに住ん
でいたのが30歳から60歳、1244年から1274年になります。シチリア
には皇帝フリードリヒ2世がいて、教皇と対立していた時です。
1246年には教皇派によるフリードリヒとエンツォの暗殺計画が発覚
して、謀反人は残酷な身体刑を与えられ命を絶たれたと書いて
ありました。美しい海があり太陽の光がまぶしいイメージのシチリア
も、残酷な事件がいろいろあったようです。1250年、フリードリヒ2世
は亡くなります。その後フランスの王族アンジュー伯シャルル1世が
フリードリヒ2世の後継者であるマンフレーディを破ってシチリア王国
を征服します(1266年)。1282年、シチリアの晩鐘事件が起き(この
時ニコラさんはスペインの修道院にいた)シチリアはアラゴン王家
に支配されてと目まぐるしく支配者が変わっていきます。
シチリアでのニコラさんの生活は自然豊かな美しい島で食物にも
恵まれて輝かしいものだったでしょう。でもその一方で人間の醜い
争いもあり、またイスラム教徒、ユダヤ教徒がたくさん住んでいた
シチリアではキリスト教徒以外の人が書いた本も手に入りやすい、
そうした本も読んで十字軍の歴史も知ったニコラさんが、スペイン
に行った後でシチリアでの生活を思い出してどんな本を書き、ど
のような考えを抱くようになったのか興味深いです(自分にとって)


