【自分の大切さに気づく】
子曰わく、疏食(そし)を飯(くら)い水を飲み、肱(ひじ)を曲げてこれを枕とす。楽しみ亦(また)其の中に在り。不義にして富み且(か)つ貴(たっと)きは、我に於(おい)て浮雲(ふうん)の如(ご)とし。

粗末な食事を食べて肘を枕に眠る、
そんな生活の中にも喜びはある。

義があれば自分の信じる道に進む事が
出来る。

信念に基づき行動すれば、
地位や名誉やお金など関係なく
自分が安定し、

どんな屈強な場所でも、
前に突き進む事が出来る。

不正に金を儲けて高い地位を得る、
そんな生き方は私にとっては
浮雲のようにはかなく感じられる。

不義があると、自分をいつまでも
偽る事しか出来ず、

本当の自分と向き合う事が
出来ない為に、いつも不安定である。

自分を偽る事で、周囲には争いが
絶えなくなりついには、疲弊する。

自分に信念がないと常に自分を偽り、
心は不安定になり、

例え富を得たとしても、
心は不安定な為に、心がいつまで
たっても満たされず、

口では信念と言っても中身が
無い為に、常に周囲の事ばかり
意識して、

自分の進む道も分からなくなり、
常に周囲に動かされ、

自分が分からず心はいつも
ポッカリ空洞で不安になり、
疲弊していく。


【世の中の良い事ばかり見ない】
三人行へば、必ず我が師あり

「三人で一緒に行動すれば、(そこには)必ず自分の手本となる人がいるものである。
(自分以外の二人のうちで)よい人をえらんで、そのよい点を見ならい、
よくない人については、(自分にも同じようなよくない点がありはしないかと反省し)
そのよくない点を改めるようにすればよい(からである)」と。

手本と反面教師
良い人からは手本を見習い
悪い人からは反面教師として、何故
悪いのかをしり、自分磨きに徹する事が出来る。

【自分には自分の役割がある】
斉の景公(けいこう)、政(まつりごと)を孔子に問う。孔子対(こた)えて曰わく、君(きみ)、君たり、臣(しん)、臣たり、父(ちち)、父たり、子(こ)、子たり。公の曰わく、善いかな。信(まこと)に如(も)し君、君たらず、臣、臣たらず、父、父たらず、子、子たらずんば、粟(ぞく)ありと雖(いえど)も、吾(われ)豈(あ)に得て諸(こ)れを食らわんや。

斉の景公(けいこう)が政治について
孔子に尋ねました。孔子は、

「君主は君主らしく、
 臣下は臣下らしく、
 父は父らしく、
 子は子らしく振舞うことが重要です。」

と答えられ、景公は、

「そのとおりだ。
 もしも本当に彼らがそれぞれの
 役目を果たさずに勝手な事を
 しだしたら、たとえ食べ物が
 あってもそれを食べる事が
 出来なくなるだろう。」

と言いました。


【思った通り事が進むとは限らない】

人は知ってるようで知らない。
いくら経験があっても状況が違えば
物事や状況は、一変する。

人は良くも悪くも慢心しやすい。
人は、少しでも成果が出ると慢心し、
驕り高ぶりやすい。

しかし、成果とは、その場での成果で
いざ違う場所でもそうかと言うと、
それは、違う。

人は自分の事を分かっているようで
分かっちゃいない。

自分には出来ると思い、実際にその場に
立つと、気づかさられる。


【陰と陽】偶然ではなく、必然
易学の第一人者:周茂叔

「天地自然は誠である」
『門の扉が風でギーッと開いて、
 またパターンと閉まる。
 事無ければ昼も閉じている。
 開く、閉じる、みな方便に従う。
 開くべくして開き、閉ずべくして
 閉じる。方に便なるに従う。
 私利私欲ではやらない。
 自然に任せる。
 ささやかな一つの柴の庵にも
 乾坤(陰陽)がある。』

人間の真理において、『人間が為す』
とすると、それは、【偽】

人間の真理において、『自然に任す』
とすると、それは、【誠】

人は生まれた時に、人との関わりに
よって自然の摂理、天地万物、

森羅万象を他者に虐げられて
忘れやすい。

しかし、答えは、自然の中にある。

大きな木は、何故?強い雨、風に
見舞われても倒れないのか?

それは、土台には、見えない
強い根っ子がある。

いくら美味しい果実を実らせて、
綺麗な花を咲かせた所で根っ子が

しっかりしておかないと、簡単に、
自然の雨や風に押し倒されて、
雪崩の如く一斉に流される。

それを見るのか?見ないのか?

どんな人生も、最後は自分


『誠と偽』

自然の流れ、己の全ての『誠』を
見るのか?

己の『誠』に気づき、己の全て知り、
己の大切さに気づくのか?

己の大切さに気づき、
己の人生を生きるのか?

己の大切さに気づき、
己の人生を大切に生きる事で、

人の人生を大切に考え、
人を愛する事をするのか?

己と人を愛する事で様々な人々を
大切に思う事で、充足した日々を
過ごすのか?

己の人生で生きて、
己を大切にし、様々な人を大切に
思う事で人と比べずに日々平静な
気持ちで過ごすのか?

己の大切さに気づき、失敗しても
己を赦し、己を赦せる事で、

人を赦し、『誠』を手に入れ、
人を信じる事を選ぶのか?

己の尊さに気づき、人の尊さに気づき
優しい気持ちで人生を過ごすのか?


自然の流れ、己の全ての『偽』を
作るのか?

己の『偽』を着飾り、己の全ては見ずに
己の大切さに気づかないのか?

己の大切さに気づかず、
人の人生を生きるのか?

己の大切さに気づかず、
人の人生に生きる事で、

人を愛するのではなく、
人に愛して貰う事ばかりを求め、

いつも満ち足りない欲望に苛まれ、
様々な人々を愛する事が出来ず、

孤独感を常に感じる日々を
過ごすのか?

人の人生で生きて、
己の大切さが分からず、様々な人々の
大切さが分からず、日々、人と比べ

勝ち負けに拘る時間を過ごし、争いの
絶えない人生を過ごすのか?

己の大切さに気づかず、失敗した自分を
赦す事が出来ず、常に己を戒め、

己を許せない為に、人を赦せず、
己の『偽』を着飾り、
人を疑い続ける人生を歩むのか?

己の尊さに気づかず、何か尊い物を
別に作り、何かの尊い物で己を着飾り
様々な人々の尊さも分からず、

着飾る事で、尊い物の正しさを強要
しなければ、己が保てず、繰り返す

事で、修羅道、闘争心の中で人生を
過ごすのか?

何を選ぶかは、自由で、
選ぶ権利は常に自分にあり、

陰陽の関係が常にある。

人が傷つけ合うのも、自然のようなもの
それは、自然が猛威を奮ったりする
ようなもの。

人から傷つけられていくと、
自分の勇気を傷つけられて、

自分の歩む道、自分の信念が
分からなくなる。
だから、軽はずみに

『いつ死ぬか分からない。』

適当に生きて、しまいには、
身近な人に対して、

『私なんていつ死んでもいい。』
と言い訳をする。

また、
本当は腹黒いんです』
と言ったりする人もあるが、

これは、他者から本当の気持ち
虐げれて生きてしまっているから、

本当の事が分からなくなってしまって
いる。

周囲との関係により、
傷つけられて、

生に対しての前向きなイメージ
老に対しての前向きなイメージ
病に対しての前向きなイメージ
死に対しての前向きなイメージ

このイメージがないから
死んでも尚生きる。
がなくなる。

暗く辛い時期は必ずやってくる。
それは、自然にも言える事。

だから、そのような暗く辛い時代に
誕生したのが、【易学】

中国では、日本と比べようもない程に
争いが絶えない。それは、今現在も…

では、そのような人々が争い合う時代に
どのように自分が乗り越えるのかを

周茂叔、程明道、程伊川、邵康節、
張横渠のような人々が

苦しむ人々を自然の摂理から導く為に
【易学】を広めていた。


私自身もまだまだ、学ぶ所ばかり、
【易学】に関しては、入門にも及ばない

だからこそ、これからも学んでいきたい
と思います。

どんな人生があろうとも、昨日の私は
昨日までの私で、今日の私は
今日の私で、今日の私は、未来の私。

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