うぶすな神様とのご縁つなぎいたします:鎗田(やりた)聡子です。(*^_^*)
以前このブログでも、
主人とのことは、こちらの
【主人は占い師&合気道の先生です】
シリーズで色々と
書いていたのですが、
自分自身のことは
ちゃんと書いていなかったので
もう少し自分自身の事も
書いてみようと思います。
良かったら、しばらく
お付き合いくださいね。
第1話【出生編】
福岡県で生まれ育ちました。
私は、1960年代に
福岡県の海辺の町で
生まれました。
昔の行政区分で言うところの
『筑前(ちくぜん)の國』で、
今の北九州地方です。
最寄りの新幹線の駅は
小倉駅(博多駅の
ひとつ手前)というと
おおよその場所は
想像できますか?

目の前には、
響灘(ひびきなだ)。
最近、世界遺産群に申請された
「宗像大社(むなかた・たいしゃ)」や
「八幡(やはた)製鉄所」にも
自宅から車で30分程度の
海沿いの小さな町です。
以前このブログでも、
主人とのことは、こちらの
【主人は占い師&合気道の先生です】
シリーズで色々と
書いていたのですが、
自分自身のことは
ちゃんと書いていなかったので
もう少し自分自身の事も
書いてみようと思います。
良かったら、しばらく
お付き合いくださいね。
第1話【出生編】
福岡県で生まれ育ちました。
私は、1960年代に
福岡県の海辺の町で
生まれました。
昔の行政区分で言うところの
『筑前(ちくぜん)の國』で、
今の北九州地方です。
最寄りの新幹線の駅は
小倉駅(博多駅の
ひとつ手前)というと
おおよその場所は
想像できますか?

目の前には、
響灘(ひびきなだ)。
最近、世界遺産群に申請された
「宗像大社(むなかた・たいしゃ)」や
「八幡(やはた)製鉄所」にも
自宅から車で30分程度の
海沿いの小さな町です。
私が遊んでいた海(大昔は木造の橋でした)
父の家系は
ずっと昔から
その土地に住んでいて、
名前を言うと、
どこの誰なのか
すぐ分かるような
田舎の海辺の町でした。
そこで両親の
第一子として
生まれました。
家族は両親と祖母と
弟の5人でしたが、
すぐ隣に
叔父の家族も居たし、
母方の祖父母や親戚にも
可愛がってもらったので
とっても恵まれた
幼少期だったと思います。
私は、その北九州の実家で
高校を卒業し、東京の学校に
進学するまで家族と一緒に
暮らしていました。
金銭的に贅沢な生活では
無かったと思いますが
精神的にとっても
充実していた
楽しく恵まれた時代でした。
今でも、実家時代は
私の大切な
第一次黄金期
だったなぁと思います。
(*^_^*)

実家の庭には、
樹齢80年を超える
蝋梅(ロウバイ)の古木があり、
私の中では今でも
『ロウバイ=我が家の記憶』に
直結します。
ロウバイだけでなく、
今では築100年を超えて
しまった我が家には、
大きな神棚と仏壇が
ありました。
我が家は何か特別に
宗教をしていた訳では
ありませんが、
毎朝、神棚や仏壇に
お水やお茶、
炊きたてのご飯や
お花をあげ、お灯明や
お線香をあげて
手を合わせて
祈ることが
朝一番の仕事であり、
他の人から
何かを頂いたら、
「まず仏壇に上げてから」
というのが
ごく普通の生活であり、
それは近所の家でも
大抵同じでありました。
また父は会社員で、母も
仕事に出ていたので、私は
保育園から帰ってくると
祖母と一緒に過ごすか
一人または弟や友達と
外で遊んでいることが
多かった記憶があります。
同居していた祖母は
父の母であり、私に
花の名前や
天気を知る方法、
その日の潮の満ち引き、
昔の歌や、ことわざなど
私にとっては
いつも家にいて
何でも教えてくれる
まさに「生き字引」
みたいな頼もしい
存在でした。
そして、この祖母が
海の近くにある
お地蔵様をお祀りした
小さなお堂に集まって
「御詠歌(ごえいか)」の
練習をしたり、
盂蘭盆会(おぼん)の時には
菩提寺で地獄絵の
掛け軸を見たり、
「数珠繰り」をしたり、
そういう行事には私も
一緒に参加していました。
そして、幼い私が
もっと不思議だったのは
時々、白い装束を着た
知らない人達が
2人~多い時は4人ほど
「お接待」と言って
我が家の座敷に泊まって
ご飯を食べて行くことが
ありました。
これは私が小学校に
上がる頃には、
もう無くなっていたような
気がするのですが、
私は幼いながらも
「私も大きくなったら
『お遍路さん』になって
四国88か所を巡ってみたい!」
とか
「日本のあちこちを回って
御朱印を集めてみたい」
と何気に憧れていた
ものでした。
(^^;)
「どうやら
そんな私のワクワクは
他の友達には
通じないらしい・・・」
というのは、このあと
小学校に入学し、少しずつ
大人になっていく中で
段々と気づくことに
なっていくのでありました。
第1話、おしまい。
第2話は、こちらです。
父の家系は
ずっと昔から
その土地に住んでいて、
名前を言うと、
どこの誰なのか
すぐ分かるような
田舎の海辺の町でした。
そこで両親の
第一子として
生まれました。
家族は両親と祖母と
弟の5人でしたが、
すぐ隣に
叔父の家族も居たし、
母方の祖父母や親戚にも
可愛がってもらったので
とっても恵まれた
幼少期だったと思います。
私は、その北九州の実家で
高校を卒業し、東京の学校に
進学するまで家族と一緒に
暮らしていました。
金銭的に贅沢な生活では
無かったと思いますが
精神的にとっても
充実していた
楽しく恵まれた時代でした。
今でも、実家時代は
私の大切な
第一次黄金期
だったなぁと思います。
(*^_^*)

実家の庭には、
樹齢80年を超える
蝋梅(ロウバイ)の古木があり、
私の中では今でも
『ロウバイ=我が家の記憶』に
直結します。
ロウバイだけでなく、
今では築100年を超えて
しまった我が家には、
大きな神棚と仏壇が
ありました。
我が家は何か特別に
宗教をしていた訳では
ありませんが、
毎朝、神棚や仏壇に
お水やお茶、
炊きたてのご飯や
お花をあげ、お灯明や
お線香をあげて
手を合わせて
祈ることが
朝一番の仕事であり、
他の人から
何かを頂いたら、
「まず仏壇に上げてから」
というのが
ごく普通の生活であり、
それは近所の家でも
大抵同じでありました。
また父は会社員で、母も
仕事に出ていたので、私は
保育園から帰ってくると
祖母と一緒に過ごすか
一人または弟や友達と
外で遊んでいることが
多かった記憶があります。
同居していた祖母は
父の母であり、私に
花の名前や
天気を知る方法、
その日の潮の満ち引き、
昔の歌や、ことわざなど
私にとっては
いつも家にいて
何でも教えてくれる
まさに「生き字引」
みたいな頼もしい
存在でした。
そして、この祖母が
海の近くにある
お地蔵様をお祀りした
小さなお堂に集まって
「御詠歌(ごえいか)」の
練習をしたり、
盂蘭盆会(おぼん)の時には
菩提寺で地獄絵の
掛け軸を見たり、
「数珠繰り」をしたり、
そういう行事には私も
一緒に参加していました。
そして、幼い私が
もっと不思議だったのは
時々、白い装束を着た
知らない人達が
2人~多い時は4人ほど
「お接待」と言って
我が家の座敷に泊まって
ご飯を食べて行くことが
ありました。
これは私が小学校に
上がる頃には、
もう無くなっていたような
気がするのですが、
私は幼いながらも
「私も大きくなったら
『お遍路さん』になって
四国88か所を巡ってみたい!」
とか
「日本のあちこちを回って
御朱印を集めてみたい」
と何気に憧れていた
ものでした。
(^^;)
「どうやら
そんな私のワクワクは
他の友達には
通じないらしい・・・」
というのは、このあと
小学校に入学し、少しずつ
大人になっていく中で
段々と気づくことに
なっていくのでありました。
第1話、おしまい。
第2話は、こちらです。
