あえてコブラ会の話から


今話題の映画「国宝」の前に、あえてNetflixで「コブラ会」の話題を。

まず、「コブラ会」は、評判になっているだけあって、ものすごくセンスがいい。

たぶん、日本文化のこと、空手のことも、ある程度わかった上で、オリジナルのベストキッドで描かれた、「変テコ日本文化」の世界観をちゃんと踏襲している。そう思うのは、作り手側が、全編にわたって「ユーモア」としてこのドラマを作っていることを、プンプン匂わせてくれているからだ。

オープニングタイトルの出し方なんて、毎回笑える。

ちゃんと笑いを理解しつつ、見る人にはシリアスに映るように設計していて、さらにエンタメとして成立するように作っているあたり、ものすごく高度なものづくりだと感動した。シーズン1と2の途中までは。

多分、半分冗談のようなコンセプトで始まったのだろう。予想以上の反響によって、本当はシーズン1で終わっても良いくらいのノリで書かれていた脚本が、シーズン2の後半になるところで、話を続けるために? 重くなっていく感じがあり、急速におもしろさが失速したように感じている。
(なので、シーズン3はまだ全て見てないです…)

わざとぶつかりにいく人間関係


この作品を面白くしているのは、単なるアクションや復讐劇ではなく、「人と人の関わり」の熱さや、そこにある“青春の未消化”が丁寧に描かれている点にある。
見ていると誰しもが胸の奥でヒリヒリするような、青春の後悔の数々…

高校生時代をリア充で過ごした方は、あまり共感できないかも、笑

なので、自分のような、青春を非リア充100%で過ごしたような人にとっては、登場人物たちの青春の葛藤や嫉妬、後悔が疼いては悶える様子が、なんとも味わい深い、笑

そして、このドラマの良いところは、それぞれ、ダメな人たちや失敗した人たちが、自分なりに、やり直そうとしているところ。

そんな、人間の光と影を行き来する時間のなかに、なぜか僕は懐かしさを感じる。

ただ、一方では思う。
「未完了の感情でどこまで遊ぶか?」

別に、殴られたいわけじゃない。
でも、心のどこかでちょっと乱暴に扱われたい。
思いきり喧嘩して、翌日には笑っていたい。
そんな欲望が、コブラ会の登場人物たちには詰まっている。

喧嘩や衝突、ちょっとした口論や言い合い。
そういったものを「人間関係を深める手段」として無意識的に捉えていたり、人間関係を「深めるためには必要だ」と思い込んでいる人は、意外と多い。

言い換えれば、じゃれあいとも言える。

極論をいうようだけど、コブラ会というドラマは、全編、全登場人物による「じゃれあい❤️」が続いているドラマ、ということもできると感じた。

 

映画 「 国宝 」 はどうだったか


映画『国宝』も観た。
まず、素直に、映画として面白かったです。

でも、正直、これ「歌舞伎とか人間国宝とかじゃなくてもよくない?」というのが、最初の感想。
こちらは、コブラ会とはまた違った形で“人間関係”が話のメインだったからです。もちろん、血の要素とか、何かを得たければ何かを捨てる覚悟、とか、色々なテーマはこめられていたと思う。

ただし、それを歌舞伎という古典の世界に乗せたぶん、少し別の違和感も残った。もっと、古典芸能を突き詰めていく上での表現者としての苦悩や、芸を深めていく上での創作者としての苦しみが見たかったからだ。(個人的には、この手の話で、プレイヤーのリアルな内側に肉薄した、漫画のブルーピリオドのようなものを期待していた)

物語としては、味付けとして入れられていた感はあるものの、覚悟の話でも、再生の話でもない。

一見、人間模様として描かれているが、全体的には
「華やかに見えて、実は複雑だったのでは?」
という“リアリティに欠けた視点”に終始している感じがある。
それゆえに、「ありそうでなさそう」な、
解像度の低いドラマになっていたという印象がしたのである。

本当にやっている人は、犠牲感をもっていないのではないか


ここでひとつ、見ていて強く感じたことがある。

この映画のテーマの一つ、「圧倒的成果を出す人ほど、大きな犠牲を払っている」という観念についてだ。

多くの人が「成功者は何かを犠牲にしてきたに違いない」と思っている。
だからこそ、ドラマでは「成功の裏にある喪失」や「孤独」や「報われない愛」が、セットで描かれがちだ。

でも実際に、何かを成し遂げている人の多くは、案外、犠牲感を抱いていない。

もちろん大変だったり、苦しい時期もあると思う。
でも、その過程を「代償」としてではなく、「選んだもの」「好きでやったこと」として受け止めていることが多い。圧倒的研究成果を出した藝大時代のアイツや、ビジネスで1人で数億の売上を出す彼女も、世界的評価を受ける著者の先生も、そんな感じだった。

やっている最中は夢中で、犠牲かどうかなんて判断していない。
だから、たとえば、本編中で主人公が色々な評判を立てられたり、一時評価を落としたりした場面でも、そんなにことに心奪われたりするかな? と思った。

自分の経験上、本当に突き抜けていく人は、
自分と、自分のやることに集中している。


だから、苦しむとしたら自分の仕事、この場合は「表現」。
ここに悩み、苦しむことがあっても、世間とか、周囲とか、そういう「人」には引っ張られないんじゃないかと思った。僕の人生で見かけた限りでは、そもそも感じないタイプと、感じながらも強靭な精神力で無視する人がいました。

ちなみに、僕は引っ張られた側の人間です、笑

ドラマに滲む、つくり手の“観念”


だから逆に言えば──
「成功には必ず犠牲が伴う」という物語を描くとき、そこにはつくり手自身の“報われていない感覚”が投影されている可能性がある。

まさに、映画『国宝』に感じたものが、そうだった。
舞台上では輝く男、私生活では愛されない。
その裏にある女たちの苦悩や未練。
これは「圧倒的成果、評価を受ける人間は、何か大きな犠牲を払うものだ」という観念で作られている。

この構造は、作り手が「何かを犠牲にしてきたのに報われていない」と感じている可能性がある。もしくは、圧倒的な天才を目の当たりにして、自身の才能のなさを痛感した時があったのかもしれない。


一方、コブラ会では「やり直し」が描かれている。
負けた人が、再び立ち上がる物語だ。
この前提には、「人はいつでも変われる」という信念がある。
だから、観ていて清々しい。

物語は、無意識の思想をあぶり出す


で、国宝がダメだった、とか言いたいわけでは、決してないです。
面白かったですし、主演の吉沢亮さんは男性として全て上位互換のように見えるほどの魅力と演技でした。

自分が言いたいのは、作品に滲む“観念”や“価値観”は、決して脚本だけで意図して作り出すものではなく、「つくり手が見ている世界そのものなんだ」ということを改めて痛感した、ということです。

だからこそ、どんな作品に惹かれるか──
どんな人物に感情移入するか──
それを見つめることで、自分の中にある無意識の思想が浮かび上がってくる。

人は、時に敵をつくる。
怒りを燃料に進む。
報われなかった記憶を引きずる。
それでもどこかで、自分だけは「やりきった」と思いたい。

そんな気持ちが、物語に現れる。
そして、物語を見ている私たちにも、同じ問いが突きつけられる。

逆に、コブラ会に漂う「納得感」


一方のコブラ会には、視聴者にとっての「納得感」がある。

あ、この人はやり直そうとしてるな──。
あ、これは過去に囚われてるんだな──。

登場人物の行動の理由が、きちんと描写されている。
だからこそ、納得しながら物語に入り込める。

リアリティとは、演出の派手さではなく、「行動の理由がわかるかどうか」もっと言うと、登場人物たちの「感情設計」なのだと思う。過去のアカデミー受賞作とか名画の類は、この「感情設計」が完璧。

その意味では、国宝は、感情の設計というか、行動原理で納得できない箇所がチラホラ。そこに「人間国宝になるくらいの人たちの境地なのだから私たちにはわからなくて当然」と蓋をしてしまう気持ちは、わかる。

でも、これはアートと同じ構造だなーと思います。

アートは崇高で立派なものだから、ぱっと見自分では意味がわからなくても、賢い人や詳しい人が見たら意味があるんだろうな、自分にはわからなくても仕方がない。
と思っていると、何もわからないし、思わせぶりなだけの物体も「素晴らしいもの」に変えてしまうことになる。

どこの美術館だったか、とある来館者がふと落としたメガネを、熱心に写真に撮る別の来館者がいて、回収するにできなくなった、なんて話がありました。

本当に極めた者だけが見ている世界


繰り返すと、映画『国宝』には、どこか「成功とは犠牲の上にあるもの」という前提がにじんでいました。

けれど、本当に何かを極めた人は、そんなドラマティックな構造に生きてはいないのでは、というのが自分の意見です。


日々、もくもくと。
淡々と。
ただ、自分の仕事に向き合っている。

犠牲ではなく、集中。
喪失ではなく、没頭。

ではなぜ、私たちは「犠牲の物語」に惹かれるのだろうか?

それは、もしかしたら
“報われていない”と感じているからかもしれない。

突き抜けた誰かが、何かを欠いていてくれたら安心する。
家庭が崩壊しているとか、人間関係がうまくいっていないとか──
そうあってくれたほうが、自分の人生も納得できる気がする。

つまり、
「報われていないから、そうであってほしい」のだ。
「何かが欠けていてほしい」という、無意識の期待。

それでも足りなければ、次はこう思う。

「あの人は特別なんだ」
「生い立ちも才能も、自分とは違う世界にいる」

そう思ってしまえば、自分がやらなくていい理由になる。

皆がその言い訳に使うから、
突き抜ける人は“特別”でなければいけないように見えてしまう。

でも、現実は違う。

突き抜ける人だって、実際は普通だ。
不安もあるし、迷いもある。
パンツも履くし、おならもする。
ただ、それでも手を止めない人たちだ。


ほんとうの“国宝”とは、
誰かに認められたから偉大なのではなく、

ただ、自分の手で、淡々と高みを見続けた人の背中に、
結果的に光が差しているだけなのではないか…

もっと静かで、もっと至高の世界。
その世界に届く人は、もはや「報われたい」
などという次元では、生きていないかもしれない。

日本画を研究している時、
巨匠たちの随筆などの生の声と作品たちを追いかけていた時、
そんな風に感じたのでした。


ということで、以上、

映画「国宝」と、ネトフリ「コブラ会」に
報われなかった想いをベースにした
「じゃれあい」という共通点を感じた、というお話でした。