5年前にUPした紅葉写真を再UPしました。
前回の続きです。
今回は二の丸西側Ⅱです。
木陰の切れる所まで歩き
カメラを少し右に回すと
下図28水の手御門跡です。
二の丸の石垣と塀がありま
せん。盛られていた地面が
崩れて斜面になっています。
二の丸は明治時代になると
大半が民間に払い下げられ
ました。石垣も各所で破壊
され昭和時代になると、多
くの民家が建ち並んでいた
のですが、1964年なると
二の丸が国の史跡に指定さ
れて買収されました。
しかし、民家は撤去された
ままで、石垣と塀は復元さ
れていません。
江戸時代中期以降の絵図です。
江戸時代初期の正保年間の絵図
で見ると
正保元年(16644年)に幕府が
諸藩に命じて造らせた絵図です。
水野勝成時代の正確な絵図です。
J付近から南側は
本丸石垣に水抜きの穴が
あります。石垣の上には
黄金水井戸がある関係で
しょう。
下図27の神辺三番櫓跡です。
福島正則の築いた神辺城から
移築された三階櫓です。
27付近を拡大すると
神辺三番櫓跡です。
3重3階の櫓で二の丸の西側にあり、
神辺城から移築されたといわれます。
明治初期に取り壊され、櫓台の石垣
は撤去され残されていないが、その
跡の土塁はわずかに残されています。
下図K付近から南方向です。
人質櫓の石垣下から南方向です。
神辺三番櫓跡付近から
火打櫓方向です。
火打櫓は2重2階の櫓で、火灯の
名称から華灯窓があったと考え
られます。伏見城から移築され
たといわれています。明治初期
に取り壊されました。
進むと
下図Lから見た御台所御門跡です。
現在は塞がれて石垣になっていま
す。
木製の御台所御門があります。
江戸時代中期以降は下図
32の御台所御門が櫓門に
改修されています。
10は火打櫓です。
L付近には阿部正弘の銅像が
あります。
Lの西方向にある阿部正弘
の銅像です。
阿部正弘像の解説板です。
皇室は鎖国を続けて攘夷
しろと言っていた時に、
清国の状況を知ってから
開国に方向転換した人で
した。長州藩や薩摩藩は
攘夷をして無理と分かっ
た藩です。西洋技術に追
いつくことを優先して、
藩校に洋学を追加しまし
た。
M付近から御台所御門跡を
見ると
御台所御門は中期以降渡櫓門で、
内枡形状の虎口を持っています。
雑魚(じゃこ)の門、馬出門と
も言われます。本丸の通用口で
西側に本丸御殿の表台所が建て
られていました。明治初期に取
り壊されて、石垣にされており
本丸側から跡は分かりませんで
した。
32を拡大すると
石垣にハギ目(赤線)があります。
赤線の右側が御台所御門です。
Mの西側にある神辺二番櫓跡です。
二の丸上段の西側にあった。当初は
下図3重3階であったが、水野氏の時
代に2重に改修されました。明治初期
に取り壊され、櫓台の石垣は撤去さ
れ残されていません。
Nの所にあった二の丸
仕切り櫓門は撤去され
ています。
N付近から見た伏見櫓です。
ヨウムの動画お借りしました。
(2分)怒る鳥の動画です。
今回はここまでで、次回最終回です。
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