今回から島原城の紹介です。
2021年4月3日に訪問しました。
今日は島原城(日本100名城)の
歴史です。本丸内資料館の一部
資料などを使い紹介します。
ハスの咲く島原城です。
(公式Webページより)
農家が堀でレンコン栽培をして
いるので、蓮の花が咲きます。
長崎県の島原城位置図です。
拡大すると
グーグル地図の島原城です。
現地にあった解説板です。
島原城のある小山は森岳といい、
島原城は森岳城とも言います。
戦国時代
1584年には島津義久と連合して、
森岳では有馬晴信が本陣を構え
て、龍造寺隆信軍を撃破し、沖田
畷の戦いで隆信を滅ぼした縁起
のいい場所でした。
キリシタン大名の有馬晴信木造です。
江戸時代
松倉重政が大坂夏の陣(1615年)
で、大和郡山城救援に五條二見城
から真っ先に駆けつけます。(二見
城は前回の五條シリーズで紹介済)
これが徳川家康に認められて、島原
4万3千石で島原に転封となります。
1616年に有馬直純は日向国延岡
藩に転封になり、有馬氏の居城で
あった日野江城に入城します。
1618年日野江城は手狭なので、
島原城の築城を開始します。
7年の歳月をかけて、1624年に
島原城が完成します。同時に城
下町も造成します。ここでも五條
と同名の新町を造りました。
島原城と城下町です。
ピンク色の所は江戸後期の地震
で陸になった部分です。
島原城の縄張りは
縄張図です。
島原城は小山の森岳に造成した
連郭式の平山城です。
本丸・二の丸・三の丸を囲むその
周囲4kmにもなる鉄砲狭間のあ
る練塀を造りました。大手門が
図の左下にあります。
領民に重税をかけ、海外貿易の
利益もあり、4万石程度の石高
ですが、10万石並の島原城を
築城しました。五條の二見城で
も1万石以上の堀などを造りま
した。
古絵図と現在の島原城です。
本丸には二の丸からの、
廊下橋を通る以外行けま
せん。二の丸にも三の丸
の前に架かる橋を渡るし
か行けませんでした。
本丸天守最上階から見た
二の丸と三の丸です。
築城想像図です。
完成した島原城です。
1637年に 初代重政と2代勝家
が、10万石相当の島原城築城や
キリシタンへの強硬な弾圧により
島原の乱が起きます。
キリシタンから攻撃される島原城です。
一揆軍の主将天草四郎です。
神の子と言われた美少年でした。
キリシタン軍の攻撃を受ける島原城
の想像図です。
一揆軍の猛攻に耐えたのですが、
勝家は領内を騒乱にした責任で
斬首されます。1638年に松倉氏
は改易となります。
1638年に譜代大名の高力忠房
が4万石で入封しますが、 1668
年に転封します。
1668年に松平〔深溝〕家が6万
5千石で入城しますが、1747年
に転封します。
1747年に戸田家が7万7千石で
入城しますが、 1774年に転封し
ました。
1774年に松平〔深溝〕家6万5千
石で再入城します。
1792年の島原大変では大地震
と大津波に襲われ地形も変ります。
地震前は万町商店街が海岸線
でしたが地震後は眉山崩れで、
その土砂が海を埋め立てました。
万町商店街の先は海でした。
1792年の眉山深層崩壊で、流れ落
ちた土砂により小山(流れ山)がいく
つも出来ました。
明治維新後 1871年に廃藩となり
ました。
明治維新後
1871年(明治4年)に廃藩置県に
より、島原県となります。この時の
藩主は松平(深溝)家でした。
1874年(明治7年)に廃城令が出
て、廃城処分となり土地建物などが
民間に払い下げられました。
1876年(明治9年)に天守以下の
建造物が破却されます。本丸は畑
地となり、三の丸には島原中学(現
:島原高校)が出来ました。
1960年(昭和35年)に西櫓を復元。
1964年(昭和39年)に天守を鉄筋
コンクリートで復元します。内部は
歴史資料館となっています。
復元された天守です。
1972年(昭和47年)に巽櫓を復
元します。
1980年(昭和55年)に丑寅櫓と
長塀を復元しました。
2006年(平成18年)に日本100
名城に選定されました。
今回はここまでです。
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