昨日の続きです。
今回は大手前跡と松平大和守家その後で、
最終回です。
中の門堀跡から見た大手門方向です。
外曲輪でした。
現在の川越城です。(グーグルより)
ピンクの線に沿って歩きました。
城内は本丸御殿玄関部分周辺以外は、
学校と民家になり、堀も埋め立てられて
現在残る堀は中之門堀跡だけです。
市役所前が大手前になります。
市役所前にある曲輪の石碑です。
川越城は連郭式平城です。
本丸御殿に展示の曲輪地図です。
追手曲輪に西大手門があり、その外側
に丸馬出がありました。
上の市役所前の図では外曲輪となって
います。慶応3年の原図よりの記述では
外曲輪と大手門です。
さらに歩くと
川越市役所です。
大手門跡の辺りから丸馬出方向です。
(グーグルストリートビューより)
現在は何もありません。
右側に市役所と太田道灌の銅像が
あります。
市役所と太田道灌の銅像です。
太田道灌は初めに川越城を築城
した人です。
ここから40km離れた江戸城も、
初めに太田道灌が築城していま
す。
ほんとにこの日は暑かったので、
市役所内のエアコンで涼んで、
休憩しました。
市役所前の曲輪石碑を拡大しました。
大手門の外側には川越の町がありました。
(川越市立博物館より)
白黒の現在地図と重ねてあります。
ところで、火災で焼失した御殿を再建
して、現在に残した松平大和守家のそ
の後は、
1767年から1866年まで、約100年間も、
この川越藩主でしたが、明治維新1867年
の前年に、前橋に引っ越しています。
映画「引っ越し大名」のモデルとなった藩は
江戸時代最後の最後にも引っ越しました。
新しい本丸御殿も造った直後なのに引っ越
ししています。
前橋にも領地があったこともその原因です。
100年間の川越藩主時代は幕府の老中
にもなれませんでした。15~17万石もあ
り他家よりも領地の大きい大名家なのに、
他家はみなさん老中・大老格ですね。可
哀そうです。
松平大和守家は、徳川家康の次男・結城
秀康を家祖としています。秀忠は3男でし
た。兄の福井藩主は松平を名乗り、松平
大和守家はその弟で、結城家の名跡を継
ぎますが、松平を名乗っていました。
めて前橋の地に入封しましたが、利根川
の氾濫などによる前橋城の崩落や大火
などにより武蔵国川越に移封してもらい
ました。
しかし、幕末に飛んで前橋に移封願を
出さされました。(上地図)
空いていたとはいえ、本丸は将軍様の
住居と考えられたようで、他藩でも本丸
以外の二の丸などに藩主が住んでい
ました。外様でもそんな城がほとんど
でした。それを空き地だからと、本丸に
藩主御殿を建てたのが、幕府の気に
入らなかった原因の一つとも考えられ
ます。
これで川越城の紹介は終わりです。
明日からは掛川城の紹介です。
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