丸岡城の紹介5 最終回 | みどりの木のブログ

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3日おきに更新しています。

昨日の続きです。

今日は丸岡城の紹介の最終回です。

 

天守から天守台の石段を下りるところです。

 

石垣にいる人の大きさから、石垣の高いことが分かります。

 

これは福井地震で倒壊した天守の写真です。

ひどい状態ですが、復元出来てよかったですね。

 

ここも本丸から下りる所です。

 

下図①から見たところです。中央にあるのは八幡神社です。

写真の左側には券売所と、ガイドさんの待機所があります。

 

券売所・ガイドさんの待機所です。本多家の立ち葵紋人形があります。

 

現在地という所にあった地図です。

 

①から右側の道を下りると、空堀があり

橋を渡ると二の丸の②でした。

 

橋のあった辺りをグーグルストリートビューで見ると

右端に②があります。二の丸は住宅地になっています。

現在の地図では下のようになります

 

②では空堀が埋め立てられています。(グーグル地図から引用)

 

本多家の後は、越後糸魚川から有馬清純が5万石で入封します。

清純はローマ法王に少年使節を派遣したキリシタン大名有馬晴信

の子孫でした。清純嫡子直純が家康の寵愛深く、家督を許された

ばかりか大名家としても存続します。有馬家が明治維新まで丸岡

藩を治めました。有馬家は財政難との戦いで、農民一揆に苦しみ

ます。丸岡入封時に322人いた藩士は、元禄12年(1699年)に

は半減に近い185人にまでリストラされます。1750年代に上級

藩士の禄高をすべて3百石にしたり、藩士の禄高カットをしていま

す。逆に、農民も重税に苦しめられていたため、有馬家の支配を

後世に伝えたくない思いもあるようです。

ただ、1772年からの誉純の代は、貧困のため年貢を納められな

い農民の年貢は、富裕層であった庄屋が立替えることになります。

これによって藩財政を安定させました。さらに1796年に大坂の

豪商加島屋作兵衛が藩の勝手向きを引き受けることによって、藩

財政は一時的な立ち直りを見せます。
この財政の立ち直りを背景に誉純は藩校平章館(現:平章小学校)

を開設し、藩史・地誌の編纂など文化事業を行ないます。

誉純の代に一時的に立ち直った藩財政は、文政期(1818年~)

に入ると再び悪化し、天保の大飢饉以後は、また財政難にもどり

ます。過酷な年貢の取り立てなどで、幕末に幕命で海防のため、

越前海岸の梶浦から浪松浦にかけて、砲台の台場を築いていま

す。明治維新では北陸道鎮撫使の通過にあたり、帰順して維新

政府側として戦いました。

 

歴史民俗資料館にも行きました。

 

歴史民俗資料館入口です。内部撮影禁止のため写真はありません。

 

 

 

下に下りました。

 

左側が丸岡体育館です。3月15日なので広場が

除雪した雪の山でした。冬は厳しい気候です。

 

現地にある案内板です。

 

正面の家は江戸時代の武家屋敷ではありませんが、

雰囲気が武家屋敷風です。

 

門の横に東三の丸の石碑があります。

 

以上で丸岡城の紹介は終わりです。明日からは延命寺のハスです。

 

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