昨日の続きです。
今日は丸岡城の紹介の最終回です。
天守から天守台の石段を下りるところです。
石垣にいる人の大きさから、石垣の高いことが分かります。
これは福井地震で倒壊した天守の写真です。
ひどい状態ですが、復元出来てよかったですね。
ここも本丸から下りる所です。
下図①から見たところです。中央にあるのは八幡神社です。
写真の左側には券売所と、ガイドさんの待機所があります。
券売所・ガイドさんの待機所です。本多家の立ち葵紋人形があります。
現在地という所にあった地図です。
①から右側の道を下りると、空堀があり
橋を渡ると二の丸の②でした。
橋のあった辺りをグーグルストリートビューで見ると
右端に②があります。二の丸は住宅地になっています。
現在の地図では下のようになります
②では空堀が埋め立てられています。(グーグル地図から引用)
本多家の後は、越後糸魚川から有馬清純が5万石で入封します。
清純はローマ法王に少年使節を派遣したキリシタン大名有馬晴信
の子孫でした。清純嫡子直純が家康の寵愛深く、家督を許された
ばかりか大名家としても存続します。有馬家が明治維新まで丸岡
藩を治めました。有馬家は財政難との戦いで、農民一揆に苦しみ
ます。丸岡入封時に322人いた藩士は、元禄12年(1699年)に
は半減に近い185人にまでリストラされます。1750年代に上級
藩士の禄高をすべて3百石にしたり、藩士の禄高カットをしていま
す。逆に、農民も重税に苦しめられていたため、有馬家の支配を
後世に伝えたくない思いもあるようです。
ただ、1772年からの誉純の代は、貧困のため年貢を納められな
い農民の年貢は、富裕層であった庄屋が立替えることになります。
これによって藩財政を安定させました。さらに1796年に大坂の
豪商加島屋作兵衛が藩の勝手向きを引き受けることによって、藩
財政は一時的な立ち直りを見せます。
この財政の立ち直りを背景に誉純は藩校平章館(現:平章小学校)
を開設し、藩史・地誌の編纂など文化事業を行ないます。
誉純の代に一時的に立ち直った藩財政は、文政期(1818年~)
に入ると再び悪化し、天保の大飢饉以後は、また財政難にもどり
ます。過酷な年貢の取り立てなどで、幕末に幕命で海防のため、
越前海岸の梶浦から浪松浦にかけて、砲台の台場を築いていま
す。明治維新では北陸道鎮撫使の通過にあたり、帰順して維新
政府側として戦いました。
歴史民俗資料館にも行きました。
歴史民俗資料館入口です。内部撮影禁止のため写真はありません。
下に下りました。
左側が丸岡体育館です。3月15日なので広場が
除雪した雪の山でした。冬は厳しい気候です。
現地にある案内板です。
正面の家は江戸時代の武家屋敷ではありませんが、
雰囲気が武家屋敷風です。
門の横に東三の丸の石碑があります。
以上で丸岡城の紹介は終わりです。明日からは延命寺のハスです。
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