佐久間象山紹介としゃべるフクロウ | みどりの木のブログ

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3日おきに更新しています。

昨日の続きです。

今日は松代の天才といえる佐久間象山の紹介です。
文化8年(1811年)2月28日、信濃松代藩士・佐久間一学国善の

長男として信濃埴科郡松代字浦町で生まれます。生家の佐久間家

五両五人扶持の下級武士でしたが、敷地は8779平方メートル

(長方形なら100m×88mの広さ)におよび、母屋のほか槍・剣術

道場、学問所、硝石製造土置き場などがあったといわれています。

父が私塾や道場を経営していたようです。今思えば中津藩の福沢

諭吉の生家も土蔵のある立派な家でした。足軽で城の門番をして

いた家なので、そんな立派な家には住めないはずです。父が算術

に明るく、「そろばん侍」として出世していたからだと思います。

 

象山の生家跡(象山神社横)

 

父は藩主の側右筆を務め、卜伝流剣術の達人で藩からは重用

されています。母は松代城下の東寺尾村に住む、足軽の荒井

六兵衛の娘でまんといい、国善の妾に当たります。佐久間家は

象山が言うには、先祖が平氏だそうです。象山は父が50歳で

母が31歳の時に生まれた男児でした。彼は眼が梟(フクロウ)

に似ていたため、子供の頃テテツポウ(松代における梟の方言)

と言われました。成長後身長約172cmもの、当時としては大男

になります。勝海舟の妹を妻にしたことも有名ですね。勝海舟は

象山は癇が強い(感情が高まり易い、つまりキレ易い)としつつ

も才能は高く評価していました。

 

佐久間象山の肖像写真です。彼は写真機も自作します。

 

文政11年(1828年)に家督を継ぎます。天保2年(1831年)3月、

20歳でに藩主の真田幸貫の世子である真田幸良の近習・教育係

に抜擢されます。しかし、高齢の父に対して孝養ができないとして5

月に辞任します。
23歳で江戸佐藤一斎の塾に入門、渡辺崋山、藤田東湖等と親交、

3年で帰藩し、藩の師弟に経書や漢字を教えました。この頃に名を

修理、号を象山と改めます。
29歳で神田お玉ヶ池に<象山書院>を開き、多くの門弟を集めま

す。
32歳で藩主幸貫の海防顧問として、海防八策を幕府に上申します。

これを機に幕府は黒船打払令を撤廃し、国策の大転換を行うこと

になります。一歩を誤れば、日本が印度・マレーシア・中国等と同

じ運命に陥って植民地化するという、 象山の進言を受け入れ幕府

を動かした、藩主で老中の真田幸貫の働きがありました。

これにより主君幸貫から洋学研究の担当者として白羽の矢を立て

られ、象山は塾を閉じ江川英龍(伊豆の韮山で反射炉を造った人)

の下で兵学を学ぶことになります。

温厚で思慮深い江川は象山のことを嫌っていたようです。洋式砲

術を使った戦略を、短期間で習得することは江川の「伝授」「秘伝」

といった旧来の教育方法では無理がありました。このため象山は、

意を汲んだ同じ高島流の下曽根信敦から文書を借り学習を進め

ました。象山の教育に対する態度は近代的で、自分が書物から

学んだことは、公開を基本としました。象山自身の門弟から「免許

皆伝」を求められた時も、その必要がないことを説明した上で断

っています。
36歳 で帰藩します。湯田中・沓野・佐野(志賀高原)の利用係とし

て開発に努力します。

38歳で自作の大砲を清野に於いて試射、 翌年西条村開善寺に

於いて新野戦砲を試射します。銅線に絹を巻いて自作の電線を

造り、オランダの理学書によって試作した電信機で、 松代藩鐘楼

より70m離れた御使者屋との交信に成功し,日本で最初の電信

開発者となります。さらにガラスの製造や、地震予知器の開発に

成功します。

松代藩の鐘楼です。

41歳の嘉永4年(1851年)には、再び江戸に移住して木挽町に

「五月塾」を開き、砲術・兵学を教えます。ここに勝海舟、吉田松陰、
坂本龍馬・橋本左内ら後の俊才が続々と入門して、維新の英才

を輩出します。

44歳から9年間、 ぺリー来航の際に軍議役として横浜警備にあた

ります。この時に開国論を唱え横浜開港を主張します。
ペリーが軍艦七隻を率いて再来航したおり、上陸したペリーは象山

の前まで来ると、何と思ったか丁寧に会釈をしていったそうです。

横浜での警衛をみごと果たした直後に、松陰密航事件に連座して

伝馬町牢屋敷に投獄されたのち、松代に蟄居とされます。この間

に高杉晋作・久坂玄瑞、山形半蔵・中岡慎太郎・石黒忠悳らが、

面会に訪れ、 時世について激論し象山の学識に感動します。
54歳 (1864年)幕府の命で京都へ上り、将軍家茂・一橋慶喜・

山階宮・中川宮に、公式合体開国を説いて活躍中 、7月11日に

三条木屋町で、攘夷派の浪士前田伊右衛門、河上彦斎等の手に

かかり暗殺されました。危険だからと言われていましたが、供の

者を付けずに1人で行動していました。

 

京都の象山暗殺現場の記念碑です。

 

佐久間家は断絶、屋敷は藩に没収され建物も解体されました。

生家跡を伝えるものは、古井戸ばかりですが、隣接して象山を

祀った象山神社が生家跡でもあります。

 

象山神社が左下にあります。

 

1913年(大正2年)の象山殉難五十年祭を機に、地元松代町出身の

大審院長・横田秀雄(横田家で紹介)を中心に神社建立が計画され、

1938年(昭和13年)に創建されました。

社地は旧佐久間象山邸であり、境内には象山ゆかりの建物が松代町

内や京都から移築されています。なお、佐久間象山の名は一般的に

は「しょうざん」と読まれますが、地元長野県では「ぞうざん」と呼び習

わされています。神社の名もこれに習い、「ぞうざんじんじゃ」と読み

す。

象山神社の絵図です。

象山の生誕地が絵図の左下にあり、ここが生家でもありました。

 

拝殿です。

 

高義亭です。安政元年(1854年)象山は吉田松陰の渡航事件に

連座し、9年間国元蟄居を命ぜられ、 松代藩御安町にある江戸

詰家老望月主水の、下屋敷に住まうことになった。その屋敷を

聚遠楼と称していたが、その一角にあった別棟を書斎として客間

に当てていたのが高義亭です。

高義亭の内部です。

幕末、多くの明治維新の志士たちが 訪れるとしばしばこの二階

の七畳半の間で対談し、国家の時勢を論じた由緒深い建物です。

昭和53年(1978年)現在地に移築しました。長野市指定文化財

です。
 

煙雨亭です。象山神社境内にある佐久間象山ゆかりの建物です。
 象山は1853(嘉永6)年のペリー来航を目の当たりにし、以降、

積極的な開国論、公武合体論を唱えますが、門弟の吉田松陰の

密航事件をきっかけに、松代に蟄居を命じられました。 煙雨亭は、

1864(元治元)年に蟄居が解かれた象山が京にのぼり、凶刃に

倒れるまで約2ヶ月間住んだ京都木屋町の「煙雨楼」にあった茶室

を移築・修景したものです。象山は京都の東山や八坂の塔を望む

ことができる煙雨楼の風情を愛でたといわれます。

           (象山神社とウイッキペディアのWebページなどより引用)

 

 

この象山神社より、南の方に歩くと武家屋敷の風情が残っています。

それをグーグルストリートから引用しました。

左が山寺常山邸の表門(幅22mで松代最大)です。

常山は8代藩主真田幸貫のブレーンとして藩政に尽力しまし

た。佐久間象山・兼原桐山とともに、松代の三山と言われま

す。

表門は平成17年に整備されて、無料休憩所になっています。

多目的に利用できる和室書院と庭園があります。

 

武家屋敷の残る風情のある通りがあります。

松代が長野市に吸収されて発展しなかったの

で、多くの文化遺産が残されています。

 

松代の紹介はここまでです。明日からは第2次上田合戦で

徳川秀忠が陣(染谷台に移す前)を置いた、小諸の紹介です。

 

しゃべるフクロウの動画お借りしました。(16秒)

佐久間象山は子供の頃にフクロウと言われたそうです。

フクロウが新聞をちぎった言い訳をしています。

 

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