今日は真田昌幸の兄の信綱・昌輝の墓紹介です。
天正2年(1574年)5月に父の幸隆が死去すると、
真田信綱は幸隆の長男で、38歳で真田家を継ぎ、
弟の昌輝とともに武田家に仕えています。武田家
の騎馬200騎持の侍大将。武田二十四将にも数
えられます。武田家の主要な戦いには必ず名を連
ね、主に先鋒として活躍しています。また近年では
箕輪城城代であったとする説も有力で、準譜代と
しての待遇を得ていたようです。三方ヶ原の戦い
では武田軍の先手を務めて徳川軍と戦いました。
天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いでは
三尺三寸の陣太刀・青江貞を振って奮戦し、馬防
柵を次々なぎ倒しながら敵陣に迫るが鉄砲部隊の
銃撃によって弟の昌輝と共に戦死します。享年39。
長篠の合戦図です。真田信綱・昌輝は右翼の先鋒として戦いました。
真田家の家督は勝頼の命令により、信綱の幼児ら
に受け継がれる事は認められず、武藤家を継いで
いた同母弟の真田昌幸が継ぎました。信綱の戒名
は信綱寺殿天室道也大禅定門です。昌幸の次男
の真田信繁(幸村)に信綱と同じ「左衛門」を名乗
らせているのは信綱のように剛勇になってほしい
という昌幸の期待があったといわれます。
信綱の首は着用していた陣羽織に包まれて、家臣
(近習)の北沢最蔵と白川勘解由が甲斐に持ち帰
ったといい、この2人は信綱を追って殉死し、その
忠義を賞されて北沢家には300石、白川家にも
200石が与えられました。
(ウイッキペディアより引用)
それでは信綱寺の山門から
信綱寺山門です。
信綱寺は、信綱の弟・昌幸が、位牌所として建立した寺で、
この南には古城と呼ばれる尾根があります。ここは中世に
真田氏が居館を構えていたと言われる由緒のある地です。
この向かい側には、公園の古城緑地広場があります。
古城緑地広場です。真田の館をイメージした造りです。
現地の説明板です。
山門横にある説明板です。
絵地図の上中央にあります。
山門をくぐり本堂の方に向かいました
階段を上ると
門の中に入ると
信綱禅寺とあります。
この右側に
鐘楼があります。
さらに
庫裏があります。
庫裏の右手に回ると坂があります
この坂の上に墓があります。
墓の説明板です。
首は大柏山打越寺まで運ばれました。その後打越寺は
信綱寺となりました。
中央が信綱・左が信綱の夫人・右が昌輝の墓です。
昌輝の墓は近年のもので新しいです。
もとの坂を下りると
山門と古城緑地広場が見えます。
これは真田氏本城から見た風景です。
今日はここまでです。
明日は角間渓谷などを紹介します。
読者募集中ですので、読者登録お願いします。
希望があれば、相互登録します。
申し訳ないお願い、御手数ですが、↓ぽちっと↓押すだけ



















