JR天王寺駅から四天王寺まで歩きました。
歩いた辺りで毛利勝永(もとは森姓でしたが、秀吉の命令で、
毛利姓に改姓しています。父は毛利(森)吉成です。父の代で、
九州征伐の褒美として北九州に6万石もらいますが、関が原
の戦いで、西軍に付き領地を失います。その後、高知の山内
家に預けられていました。)隊と本多忠朝隊1000人が激突し
ました。1615年5月7日に毛利勝永隊4500人は、四天王寺
南門前に、木村重成勢や後藤基次勢の残兵など2000人とと
もに布陣していました。
昼の12時頃、徳川軍の本多忠朝隊1000人が、
偵察のついでに発砲します。それで毛利勝永隊が
応戦しました。これを真田幸村の陣営で知った、
毛利勝永は当初の作戦(天王寺に敵を引き寄せて、
家康本隊が手薄になれば、明石隊が家康を背後か
ら攻撃する)が失敗すると、本人が発砲の中止を
命令します。勝永は一町弱の距離で、兵を伏せさせ、
前進してくる本多隊との距離が百mほどになった時
に一斉射撃をさせた。これを食らった本多軍は70人
程が打ち取られた。次に勝永は左右に隊を分離して、
本多隊を挟撃しました。これにより本多隊は壊滅し、
本多忠朝が打ち取られます。

1806年の絵地図に、夏の陣天王寺周辺の布陣を書きました。
この地図は本清水とある所にあった絵地図です。

国土地理院の地形データ(低地は水色)と、
グーグル地図を引用しています。
グーグル地図を拡大縮小半透明にして上に重ねました。
上町台地の地形を利用して、大坂方は作戦を立てています。
四天王寺庚申堂の門です。
四天王寺庚申堂です。
四天王寺庚申堂の本堂です。

四天王寺庚申堂です。
四天王寺庚申堂には、真田幸村が自分の
影武者である、穴山小助の一部隊を布陣
させたと言われます。
さらに北に歩くと四天王寺南大門があります

四天王寺南大門です。ここに毛利勝永隊など
6500人がいました。
門を拡大すると

猫柳のような木がありました。
今日はここまでです。
メンテがありUPが次の日になりました。
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