前身は、空海開基の神福山長安寺(ちょうあんじ)
という名の真言宗の寺院でしたが、1620年に、
狭山池の堤防が決壊し、西除川の洪水により、
寺地及び寺は流出しました
という名の真言宗の寺院でしたが、1620年に、
狭山池の堤防が決壊し、西除川の洪水により、
寺地及び寺は流出しました
グーグルの地図からの引用です。
明暦年間(1655年~1657年)頃に、曹洞宗の
僧・宗月が、長安寺の寺地と寺を今井村中から
譲り受け、寛文11年(1671年)に地中より観音
像を掘り出し、草庵に安置して再興した。
僧・宗月が、長安寺の寺地と寺を今井村中から
譲り受け、寛文11年(1671年)に地中より観音
像を掘り出し、草庵に安置して再興した。
翌、寛文12年(1672年)に、宗月は宇治・黄檗
山万福寺の、開祖である隠元隆琦の弟子だった、
慧極道明(えごくどうみょう、1632年~1721年)
に寺地と寺を譲り、寛文13年(1673年)に慧極
は幕府の許可を受け、寺号を大宝山法雲寺と改
め、禅宗の黄檗宗の寺としました。
山万福寺の、開祖である隠元隆琦の弟子だった、
慧極道明(えごくどうみょう、1632年~1721年)
に寺地と寺を譲り、寛文13年(1673年)に慧極
は幕府の許可を受け、寺号を大宝山法雲寺と改
め、禅宗の黄檗宗の寺としました。
慧極は、延宝5年(1677年)に禅堂を、延宝8年
(1680年)に鐘楼を建立し、その後、30年をかけ
て大門、大方丈、開山堂、斎堂、天王殿、長生閣
などの二十数棟を整備しました。
(ウイッキペディアよりの引用)
(1680年)に鐘楼を建立し、その後、30年をかけ
て大門、大方丈、開山堂、斎堂、天王殿、長生閣
などの二十数棟を整備しました。
(ウイッキペディアよりの引用)

大門を内側から撮影しました。
次は天王殿です。黄檗宗独特の建物であり、宇治の
万福寺と当寺だけに現存します。内部には、弥勒菩薩
像と四天王像がある

正面に布袋尊(弥勒菩薩)が安置されてます。
まず最初に布袋尊にお参りすることによって、
その大きなお腹に人間の持っている煩悩や、
欲望を取り払って戴きます。その後、他のお堂
に参り、帰りにもう一度参ると、手に持った布袋
から「徳」を与えて下さるという 言い伝えがあり、
ここに安置しています。またこのお堂はその名
が示す通り四天王が四方に安置されており、
侵入者から寺を護っています。
元禄10年(1697年)に、狭山藩(後北条氏の末裔
が藩主)の5代藩主北条氏朝は、慧極と師弟の約を
結び、以後、北条家の菩提所となります。墓地の中央
には、第11代藩主北条氏燕の墓があります。
が藩主)の5代藩主北条氏朝は、慧極と師弟の約を
結び、以後、北条家の菩提所となります。墓地の中央
には、第11代藩主北条氏燕の墓があります。
黄檗(おうばく)三傑の一人、慧極道明(えごくどうみょう)禅師
により、禅宗の一派黄檗宗の中本山格の寺で、1万坪の境内
には山門・天王殿 ・大殿(だいでん)・開山堂(かいさんどう)・
耀先殿(ようせんでん)・方丈・鐘楼などがあり、建築当初の伽藍
構成を今に残してtます。
大殿には3333体の本尊が安置されています。お盆8月15日
の万灯会は、万物の霊に灯火をささげ、無病息災を祈る伝統
行事で、願いを込めた、千基にのぼる灯ろうにろうそくの火が
ともり、境内に幻想的な雰囲気をもたらします。
これは文政8年(1825年)に始まったとされ、廃仏毀釈で一時
中断されましたが、100年以上の時を経て復活したものです。
また、市の花木であるツツジの名所としても有名で、広い敷地
に1000株の赤・白・ピンクのツツジが咲き、見頃の4~5月に
は1日1000人以上の人々が訪れ、その景観は「花咲けば、
ツツジの海」といわれるほど豪華絢爛です。

法雲寺のWebページからの引用です。
きょうはここまでです。
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